散々な言われようだが、道長がそれくらい出世の見込みがなかったことが、よくわかる。なにしろ、道長は兼家の5男として生まれた。同母兄だけでも、13歳年上の道隆と、5歳年上の道兼と2人の兄がおり、周囲からすれば、目立った存在ではなかったようだ。現にこのときの道長は従三位・左少将。左大臣の娘の婿となれるような立場ではなかった。
ところが、そんな道長の才を見抜いていたのが、倫子の母・藤原穆子(ぼくし)である。穆子は賀茂祭や行列などで、道長の姿をみて、こう感心していたという。
「この君ただならず見ゆる君なり」
そのときの直感を信じて、穆子は「この話は私にお任せください」とまで言っている。
そして、結婚に反対していた夫の源雅信を説得。その結果、道長と倫子は、永延元(987)年12月16日に結婚を果たすこととなった。
自身の出世を信じていた道長
道長の才を見抜いていた穆子の慧眼には驚かされるばかりだが、もう一人、同じように考えていた人物がいた。ほかでもない、道長本人である。
道長は自身の出世を信じて疑っていなかったようだ。『大鏡』には、次のような逸話がある。
道長の父の兼家が、まだ不遇だった頃のことだ。関白の藤原頼忠の子・公任(きんとう)が漢詩や和歌の才に優れて、音楽にも長けていたことが羨ましくて仕方がなかったようだ。兼家は息子たちの前でこう愚痴をこぼした。
「いかでか、かからむ。うらやましくもあるかな」
どうして、あんなに優れているのだろうか。うらやましい限りだ。父親にこんなことを言われたら、息子としてはへこみそうだが、兼家はさらに、こう嘆いたという。
「わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ、口惜しけれ」
私の子どもたちが、大納言の影さえ踏むことができないのが、残念だ――。そんな辛辣な父の言葉に、道長の兄たちは何も言い返すことができなかったという。そんななか、道長だけが、こう言ってのけた。
「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」
何と言う負けん気の強さだろうか。父や兄たちが唖然とする表情が眼に浮かぶ。権力闘争に勝ち残る者は往々にして負けず嫌いだが、道長も例外ではなかったようだ。
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