父の失望も着火剤として、政界を駆け上がっていく道長。そのきっかけとなったのが、倫子との結婚だった。
倫子の父・源雅信は、道長との結婚を「バカバカしい」と言い放つだけあって、左大臣であるだけでなく、生まれも高貴だった。宇多天皇の第8皇子・敦実親王の3男にあたる。そんな宇多源氏とつながりをもったことで、道長は朝廷内で地位を築く足がかりを作ることとなった。
平安時代には、夫婦は別居して夫が妻を訪ねる「妻問婚」(つまどいこん)から、次第に夫が妻の家に同居する「婿取婚」へと、結婚のスタイルが移行したといわれている。
道長も妻の倫子が両親と住む土御門第に通っていたが、結婚の翌年に長女が誕生すると、土御門第へと移り住むこととなった。この長女こそが、藤原彰子であり、のちに教育係として、道長は紫式部を起用することになる。
その一方で、道長は源明子のもとに通って、彼女とも結婚しているのだから、なかなか忙しない。
道長が明子の結婚相手に選ばれたワケ
明子は源高明の娘であり、道長の兄たち、つまり、道隆や道兼も求婚したとされている。そんななか、道長が明子の結婚相手として選ばれたのは、道長の姉、詮子の働きかけがあったからだという。
道長は年少で兄たちよりも結婚が遅かったことから、姉の詮子と長く同じ屋根の下で過ごした。姉との良好な関係は、その後も道長の出世をサポートすることになる。
道長は倫子との間に2男4女を、そして明子との間に4男2女をもうけた。合わせて12人の子女に恵まれたことも、道長を栄華の最高潮へと導いていくことになる。
父の遅い出世が5男の道長に幸いしたことは、すでに書いた(過去記事:「5男で生まれた「藤原道長」想定外の出世の裏側」)。それに加えて、自らの結婚により、道長の眼前には、出世の道が大きく拓かれようとしていた。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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