「豊臣秀吉の死」波瀾万丈だった62年の生涯の最期 家康たち家臣に、死の直前の秀吉が託したこと
8月5日、家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に宛てて、秀吉は遺書をしたためた。
そこには「返す返す、秀頼のことを頼みます。五人衆に頼みます。秀頼が一人前になるまで支えてほしい。これ以外に思い残すことはない」と幼少の秀頼の行く末を案じ、家康らに秀頼を守り立てることを懇願したのである。
秀吉の遺言覚書は複数残されているが、別のものには「徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家は、秀吉の口頭での遺言を守り、互いに婚姻を結び、絆を強めること」「家康は3年間在京せよ。所用あるときは秀忠(家康の3男)を京に呼べ」「家康を伏見城の留守居の責任者とせよ。前田玄以・長束正家を筆頭にして、もう1人を伏見に置け」「秀頼が大坂城に入った後は、武家の妻子も大坂に移れ」との内容が記されている。
家康に「3年間は京都(伏見城)にいよ」と命じたことは、秀吉は家康が関東に帰り勝手なことをするのを恐れたからだろう。豊臣家臣の前田玄以・長束正家は、伏見にて家康の監視を命じられたと言ってよい。
秀吉は家康に期待するところが大きい一方で、それと同じくらい自らの死後の家康の動きを恐れて不安に思っていたのかもしれない。
秀吉は62歳で病死
秀吉は慶長3年8月18日に病死する。病名は赤痢、尿毒症、脚気などさまざまな説があるが、詳しいことはわからない。貧しい境遇から一代で天下人へとのし上がった波瀾万丈な生涯を秀吉は閉じた。享年62だった。
『三河物語』には、秀吉政権下での家康の動向が簡潔に記されている。
「天正19年(1591)7月、関白(豊臣秀次)殿を大将として、奥州に戦があった。家康の本隊は岩手沢にあった。しばらくして奥州は平定された。関白殿は米沢に入り、家康も米沢にやってきた。
関白殿と帰国した。文禄元年(1592)、高麗(朝鮮)との戦で、太閤(秀吉)は出陣し、肥前名護屋に陣をおいた。家康も名護屋に赴く。軍勢は高麗国に出発。その後、関白殿が謀反を企てたということで、聚楽の城から追い出され、高野山に送られ、腹を切らせた。
その後、関白殿の女房らを大勢、三条河原に引き出して、首を刎ねた。首は一つの穴に入れられ、畜生塚と名を付けて、つき固められた」
そして、同書は秀吉の死をこう記す。
「太閤は慶長3年(1598)8月18日御年62で、朝の露のように亡くなられた。面々の者が寄り合い、秀頼を大事に守り立てた。なかでも内大臣家康は、太閤に頼まれていたので、とりわけ大事にされた」と。
(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
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