「豊臣秀吉の死」波瀾万丈だった62年の生涯の最期 家康たち家臣に、死の直前の秀吉が託したこと
翌日には、家康・毛利輝元・小早川隆景・前田利家・宇喜多秀家らが「御掟」「御掟追加」に署名している。
「御掟」には、大名同士の婚姻は秀吉の許可を得ること、大名が誓紙を取り交わすことを禁じる、喧嘩口論の際は我慢したほうに理がある、無実を申し立てる者があれば双方を召し寄せ、糾明するといったことが定められていた。
そして「御掟追加」では、公家などに対し家道を嗜み公儀に奉公すること、寺社は法を守り学問・勤行に励むこと、覆面して歩くことの禁止などが記されている。これら掟は、大名だけでなく、公家・寺社など幅広い階層を対象としたものだった。
また家康らが署名した8月3日は、拾(秀頼)の誕生日(このとき、2歳)であり、これら掟の規定は、秀吉の新たな後継者・秀頼の来るべき治世をバックアップするものであった、と考えられる。
秀吉はふたたび朝鮮出兵を決意
さて、文禄5年(1596)9月1日、秀吉は大坂城にて、明国の使節と対面する。秀吉は明国から「日本国王」に冊封(爵位を授けられる)され、家康も「右都督」を授けられた。
しかし、後日、明の使節が朝鮮からの日本軍の撤退を求めたことに秀吉は激怒。和平交渉は決裂し、慶長2年(1597)2月、秀吉は再度の朝鮮出兵を命じる。いわゆる慶長の役である(第1次朝鮮出兵は文禄の役)。
明国は朝鮮を支援していたので、慶長の役の際も、明・朝鮮の連合軍と日本軍の戦となった。朝鮮側は文禄の役のときとは違い、防備を整えていたため、日本軍の快進撃というものはなく、持久戦を強いられていく。
その一方で、国内においては、秀吉は我が子・秀頼を後継にすべく、その立場を固めていた(慶長元年に拾から秀頼に改名)。
慶長2年(1597)9月に「従四位下左近衛権少将」に任じられ、慶長3年(1598)4月には「従二位権中納言」となったのも、秀頼の足場を固めるためであったのだろう。
秀吉は慶長3年の春より病身となり、病状は日に日に重くなっていった。死期を悟った秀吉は、諸大名に再び起請文を提出させる。それは、秀頼への奉公、法度の遵守、私的な遺恨の企てをしない、徒党を組まないこと、暇を得ず勝手に国へ帰らないことを求めるものであった(7月15日)。
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