店主である新山直人さんは、実は町中華店の出身。独立までの12年間のキャリアのほとんどを町中華で過ごしてきた。そんな新山さんにとって町中華は特別な存在だ。
「町中華は子供の頃から母親に連れて行ってもらっていたので、原風景的な存在です。家の目の前に『幸龍』というお店があり、よく通っていました。いつもすごい行列で活気のあるお店でした。まだ先代が鍋を振っていた時代で、麻婆飯のファンでしたね」(新山さん)
17歳で修業の道へ。厳しさに泣いた日も
料理を作るのが好きだった新山さん。中学時代には「幸龍」でアルバイトをするようになった。高校時代は部活の柔道が忙しくてアルバイトは辞めていたが、高校2年生の時に中退して、次の日から「幸龍」での修業が始まった。17歳の時だった。
「そんなわけで、料理人としての原点が町中華なんですよね。先代は昔ながらの料理人だったので、修業はとても大変でした。とにかく厳しかったです。
自分は柔道で精神が鍛えられているはずでしたが、何度も心が折れかけましたね。厨房でモップをかけながら泣いた思い出もあります。でも料理はどんどん覚えていきました。ある程度の手ごたえもあったんです」(新山さん)
「幸龍」では4年修業し、「博多 一風堂」でラーメン店の仕事を学んだあとに、もう一軒町中華での修業を挟んで「麺屋 はなび」を創業した。その後の台湾まぜそばでの快進撃は前述の通りだ。
「『はなび』をやりながらも、町中華はいつかやりたいとずっと思っていました。12年間ほぼ町中華一本でやってきましたからね。ですが、中華料理を作れるのが僕しかいなかった。料理人を育てるのはなかなか難しく、ラーメンのほうが教えやすかったんですよね。台湾まぜそばが当たったので、それを広げていくことで精一杯だったということもあります」(新山さん)
「はなび」をやりながら、まだ実力を出し切っていないとずっと思っていた新山さん。ついに町中華を開くことを決意する。それには理由があった。
「諦めきれず、職人を探していたら応募があって、それでやろうと決心しました。でも、そこからオープンまで3年かかりました。物件が出てこなかったんです。
それは、今池にこだわっていたからです。町中華が良く似合う昭和レトロな場所といえば今池しかないなと思って。この3年の間に店長に技術を伝えていきました」(新山さん)
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