家康最大の危機「伊賀越え」虐殺の地を越えし強運 服部半蔵や本多正信と過ごした逃げ地獄の3日間

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こうして家康は無事、三河に帰還しました。本能寺の変から3日後のことです。家康は、すぐに光秀討伐に動き出します。しかし徳川家は軍備を解いており、すぐには出陣できませんでした。それでも家康は慌ただしく出陣を準備します。

ちなみに、このタイミング(6月5日時点)で羽柴秀吉は、本能寺の変を知って毛利と講和を結び、その条件である高松城主・清水宗治の自害を見届け、いよいよ京に戻ろうとしていました。

距離的には家康のほうが近いですが、すでに戦時中の大軍を率いている秀吉のほうが有利です。秀吉のすさまじさは、最大の障害となる毛利との講和を成し遂げたことにあります。もしも毛利が、この講和をのまなければ、信長の仇討ちという最大の功績は家康に転がり込んだでしょう。

NHK大河ドラマ『どうする家康』 酒向芳 明智光秀
家康を取り逃したことを知った明智光秀の心境は(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

一方の光秀はというと、味方を増やすべく朝廷への工作や近隣大名への説得に明け暮れていました。しかし、こちらは恐ろしいほど結果が出ていません。それどころか最大の身内であり理解者であるはずの細川幽斎、忠興親子にすら見限られるありさまでした。

光秀は戦う前から、すでに敗れてしまった状態といえます。あとは誰が、その光秀と戦うかが問題だったのです。

光秀の敗因は「首」と「家康」

光秀の最大の敗因の1つは、信長の「首」を確保できなかったことです。秀吉は本能寺の変の後、畿内の信長配下であった諸将に、

「上様ならびに殿様いずれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」

と信長・信忠親子が生存しているという旨の書状を送っています。

受け取った側が信じたかどうかはわかりませんが、信長の首がない以上、その可能性は無視できません。畿内の諸将は、状況を確認するために光秀の加担に慎重にならざるをえなかったのでしょう。せめて信忠の首だけでもあれば状況は違ったかもしれませんが、光秀は信忠の首も得られませんでした。それゆえ、わずかではあっても信長・信忠親子の生存が真実味を帯びてしまったのです。

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