逸話では、信君は家康たちの移動速度について来られず次第に遅れ、完全に別行動になったところを落ち武者狩りに遭って命を落としたとされています。しかし、それは宇治田原での出来事でした。出発してすぐの場所ゆえ単に遅れたとは考えにくく、信君は明智側に降伏しようとした可能性があります。
信君は百戦錬磨の武将であり、状況的に見て百に一つも家康が脱出できるとは思えなかったのではないでしょうか。信君は家康の家臣になったとはいえ、まだ1年も経っていません。明智側に降伏して家康の脱出ルートを教える代わりに、自分の身を保証してもらう考えがあったとも考えられます。しかしながら、その前に殺されてしまいました。はからずも自らの死で、この脱出行の難しさを証明することになったのです。
こうして家康にとっての本能寺の変は、神君三代危機とされる「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」を超える「伊賀越え」につながります。
最大の難関となった伊賀の地
家康一行は、宇治田原から甲賀に入りました。甲賀では多羅尾光俊という土豪が宿を提供してくれます。甲賀を抜けると伊賀に入り、そこから伊勢湾を抜けて三河というルートを設定していました。しかし、この伊賀が最大の難関でした。
伊賀は、1571年と1581年の二度にわたって織田軍と交戦しており、とくに1581年の天正伊賀の乱では、伊賀に住む9万人のうち非戦闘員を含む3万人が虐殺されました。当然、伊賀の人々は深く織田を恨んでおり、その恨みは同盟国である徳川にも及びます。したがって伊賀は、避けて通るべき地でした。
このときの家康一行に服部半蔵がいましたが、彼は先祖が伊賀の出というだけで、忍者でもなく伊賀に旧知の者がいたわけでもありません。この伊賀越えにあたって大きな役割を果たしたのは、伊賀者ではなく多羅尾光俊や山口定教といった甲賀者でした。とくに山口定教は加太峠で一揆に襲われ、絶体絶命になった家康一行を救っています。
これら甲賀者の働きで無事に伊勢湾に出ることができた家康一行は、三河へと帰還しました。ちなみに伊賀越えで家康を助けた功績で伊賀者が徳川家に召し抱えられたという逸話は「伊賀者由緒」という書物に書かれており、伊賀者の御庭番編入を進めていた八代将軍・徳川吉宗が伊賀者の地位向上のために仕掛けたものだという面白い説もあります。
史実としては、伊賀者が家康のために目覚ましい働きをしたという事実はありません。
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