瀬名・信康誅殺の讒言を五徳が送る悲しい裏事情 8歳で政略結婚、世継ぎ産めなかった複雑な胸中

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そもそも事の発端となった五徳の十二箇条の讒言が本当に存在したかは怪しいようです。この讒言状は江戸期に入ってからのもので、当時の書面には存在が記されていません。たしかに家康は従属的な立場に変化しつつあったとはいえ、世継ぎを殺せという命令を簡単に信長が出すとは思いにくい。どちらかというと、家康主導の判断を信長が認めたというのが実情に合っているような気がします。

この信康・築山殿誅殺の件は改めて記しますが、家康と信康、浜松と岡崎の対立が原因であるという説が支持を集めつつあることも付け加えておきましょう。ただ私は五徳が信長になんらかの訴えを行ったのは事実であり、それが信長の判断に影響を及ぼしたことは間違いないと考えています。

信康死後は織田家に戻されるも再婚せず

信康の切腹後、五徳は織田家に返されることになります。

ふたりの娘は徳川家に残し、身一つで織田家に戻りました。

このとき彼女は20代前半で十分再婚できる年齢でしたが、彼女は生涯再婚することはありませんでした。信長が本能寺の変で倒れ、兄・信忠も死んで天下が豊臣秀吉に移ると、五徳は秀吉の庇護下に置かれます。

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秀吉は彼女を丁重に扱ったようでした。そして徳川の天下になると、尾張・清洲城主となった家康の4男である松平忠吉から1761石の所領をもらい、五徳本人は京に移り住みます。徳川家としても彼女を粗略には扱いませんでしたが、家康が彼女に声をかけることはなかったようです。

五徳のふたりの娘は、小笠原秀政、本多忠政の妻となっていました。

五徳が生涯、再婚しなかったこと、家康が五徳と接触しなかったこと、これはどちらにとっても信康のことが痛恨の極みだったのでしょう。もし五徳と信康のあいだに男子が生まれていたら、信康との仲がこじれなかったら、そんな想いが五徳を苦しめたのかもしれません。

そう思うと、8歳で親元を離れ、愛した夫を殺すきっかけをつくり、娘たちとも離れて暮らさねばならなくなった五徳の一生は、悲しみと別れの連続だったのかもしれません。

五徳は78歳で静かにこの世を去ります。

時代は3代将軍・徳川家光に移っていました。

眞邊 明人 脚本家、演出家

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まなべ あきひと / Akihito Manabe

1968年生まれ。同志社大学文学部卒。大日本印刷、吉本興業を経て独立。独自のコミュニケーションスキルを開発・体系化し、政治家のスピーチ指導や、一部上場企業を中心に年間100本近くのビジネス研修、組織改革プロジェクトに携わる。研修でのビジネスケーススタディを歴史の事象に喩えた話が人気を博す。尊敬する作家は柴田錬三郎。2019年7月には日テレHRアカデミアの理事に就任。また、演出家としてテレビ番組のプロデュースの他、最近では演劇、ロック、ダンス、プロレスを融合した「魔界」の脚本、総合演出をつとめる。

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