信康との深刻な亀裂を修復できないまま、思いあぐねた五徳は父・信長に書状を送りました。この書状は十二箇条からなる信康、および築山殿に対する讒言です。
一・築山殿が自分と信康のあいだを割こうとしている
一・娘ばかりを産むと言い、武田勝頼の家臣の娘を側室に迎えた
一・築山殿は武田と通じる医師を通じて勝頼と内通している
一・信康は乱暴者にて、領民を殺し、僧を殺したりしている
などなど、信康と築山殿の悪事を信長に告げたとされます。
特に武田との内通のくだりは単なる夫婦喧嘩の域を超えており、事態を重く見た信長は、家康の重臣である酒井忠次を呼び出し、ことの真偽を問いただします。このとき忠次は、信長の詰問に明確な否定をしませんでした。
信康と築山殿の誅殺は信長の命ではなかった?
忠次の態度を見た信長は、五徳の訴えを正当のものと捉え、家康に信康及び築山殿の誅殺を命じます。このころ家康と信長のパワーバランスは、以前の対等なものではなくなっていました。武田家を長篠の戦いで破り、頑強に抵抗を続けていた石山本願寺との実質的な勝利ともいえる和睦を達成した信長は、実質的な天下人です。『どうする家康』でも描かれていた通り、家康は同盟者から従属的な立場に変わりつつありました。信長からの要求に抗しきれなくなった家康は、ついに築山殿を家臣に命じて殺害させ信康には切腹を命じることに……というのが従来の定説ですが、最近はこの説に異論も出ています。
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