これは、すでに家康とは没交渉だったと思われる築山殿のあてつけのようにも思われる動きでした。問題は、この母の選択を信康が受け入れたことにあります。築山殿による夫婦間への介入もありますが、なにより肝心の信康と五徳のあいだに深刻な不和が生じていました。
五徳の侍女を、信康が五徳の目の前で手討ちにしたという逸話も残っています。
徳川家を揺るがす大問題に発展
五徳と信康の不和は、父・信長にも届いていたようで、心配した信長が岡崎に訪ねてきたという記録も残っています。残念ながら、信長の訪問もふたりのあいだを修復するまでには至らなかったようです。
一方の家康のほうが武田対策に追われており、どれほど息子夫婦の問題を深刻に受け止めていたかはわかりません。家康は妻・築山殿にも無関心で彼女を傷つけるような接し方をしていたので(築山殿の侍女に子を産ませるなど)案外、大したことはないと思っていたのかもしれません。しかし結果的には、五徳と信康の不和は徳川家を揺るがす大問題に発展します。
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