台湾が独立国家として生き残ってこられた理由 中国の侵攻に耐えうる条件がそろっていた

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台湾は中国の野心に屈することなく独立を保ってきた(写真:masa/PIXTA)
領土的野心を隠さない中国が、その根拠としている中国国境の歴史には、どれほどの信憑性があるのか。広範な資料を基に、中国が主張する歴史、民族、言語、領土にまつわる神話の虚構性を検証した著書『「中国」という捏造:歴史・民族・領土・領海はいかにして創り上げられたか』から一部抜粋・再編集し、台湾に関する中国の主張の歴史を紹介する。

台湾は中国の「領土」とは見なされていなかった

1937年に日中戦争が始まると、蔣介石は日本の侵攻によって地政学にさらに傾注せざるをえなくなった。1938年4月、漢口での党大会では、国民党政府の外交方針および対日戦争への対処についても話し合われた。そのさいの演説や決議のなかに、蔣介石の地政学的な考えが見てとれる。「抗日戦争と国民党の将来」についての演説のなかで蔣介石はこう述べた。「われわれは朝鮮と台湾が独立と自由を取り戻すことができるように手助けしなければならない。そして、朝鮮・台湾とともに団結して中華民国の守りを固め、東アジアにおける平和の礎を強固にしなければならない」。

ここで注目すべきは、蔣がこの時点では朝鮮・台湾いずれに対しても中国領土に含めることを求めていないことである。蔣にとって重要だったのは、この2つの地域の戦略的な位置であり、中華民国の前線にある緩衝国家としての役割を果たす可能性だったのだ。

振り返ってみると、当時台湾編入がまったく俎上に載らなかったという事実に驚かされる。共産党はずいぶん以前から、台湾を中国に再編入するよりも、むしろその独立を支持してきた。1928年の第6回全国代表大会で、共産党は台湾人を中国人とは別の国民であると認めている。1938年11月の党中央委員会全体会議では、「中国人、朝鮮人、台湾人、その他の国民とのあいだで抗日統一戦線を結成する」と決議されており、台湾人と中国人とのあいだに暗黙の区別があったことがわかる。このときの共産党の見解では、台湾人は別の「民族(ミンズー)」だったのだ。

この見解は1940年はじめに至るまで存続した。1941年7月の周恩来の記事でも、また朱徳元帥の1941年11月の記事でも、将来解放された台湾は独立した国民国家になると明言されている。1941年12月に共産党が日本に宣戦布告した文書のなかでさえ、台湾人は中国人とは別個の国民として記されていた。

台湾は別の国というこの見解は、少なくとも1942年まで中国政治において合意がなされていた。ところが3つの出来事がこの状況を変えたと思われる。一つは、アメリカが1941年12月に参戦し、日本敗戦の可能性が高まったことだ。このときになって国民党政府はようやく正式に日本に宣戦布告し、一方的に下関条約(日清戦争の講和条約。台湾の日本への割譲が内容に含まれる)の破棄を通告した。結果的に、蔣介石の関心が戦後の地政学に向いた。

2つ目は、日本の支配下にある地域を政情不安定にすることで、日本軍の気をそらそうと策を練っていた蔣介石が、台湾を利用しようと考えたことである。そして第3に、数は少なかったが日本の植民地時代に中国本土へ亡命してきた台湾人が積極的にロビー活動を行ない、台湾を中国の一部として考えるよう国民党に働きかけていたことが挙げられる。

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