台湾が独立国家として生き残ってこられた理由 中国の侵攻に耐えうる条件がそろっていた
そして、台湾の「光復」は1945年に実現する。9月9日、日本の陸軍中将、諫山春樹が南京入りし、正式な降伏を宣言、10月25日には、ついに国民党軍が台湾に上陸した。しかしながら台湾のなかには、中華民国への帰属を望まない者が多くいた。日本統治下で利益を得ていた層や、国民党の腐敗に抗議する者、ほかにもたんに本土からの侵入者に対して敵意を抱いている者などがそうだった。
さらに問題を悪化させたのは、初代台湾省行政長官に任命された陳儀だった。彼は地元民の感情をうまく扱いきれず、不満は高まっていった。こうして1947年2月28日、ついに大規模な暴動へと発展し、鎮圧のために極端な暴力が行使された(二・二八事件)。3月の末までに少なく見積もって5000人(2万人という資料もある)の台湾人が陳儀の国民党軍により虐殺された。この台湾でのつまずきにより、「光復」をめざし中国統一を宣言するナショナリストたちの計画は大いに阻害されることになった。
こうした関係悪化にもかかわらず2年も経たないうちに、台湾は国民党の存続にとって生命線とも言える存在になる。国共内戦で共産党が優位に立つと、蔣介石はどう生き残るかという問題に直面した。撤退するにはどこが最適な場所か? 蔣介石自身は南西部で戦時中の首都であった重慶か、もしくは海南島が好ましいと考えた。
1948年後半、蔣介石は地政学の顧問である張其昀に意見を求めた。すると張は各地方の地理的な特徴を比較検討し、国民党の最後の砦として最もふさわしい場所を選び出した。まずは防御が容易な場所でなければならない。とはいえ本土から距離が離れすぎてはならない。農業ができるほど肥沃で、数百万人に食糧を供給できるほど広い土地があり、インフラや産業基盤が整備されていて、共産党の支援者がほとんどいない場所。張の地理学知識から導かれた最高の場所が台湾だった。張の判断は正しかった。重慶も海南島も共産党の手に落ちたが、台湾だけは免れることができた。
独立国家として生き残れる最適の場所
最終的に、今なぜ台湾に中華人民共和国とまったく異なる政府があって、なぜ台湾の正式な独立を求める声がこんなにも大きいのか、その理由が張其昀による賢明な助言にあることは言うまでもない。つまり、張が選んだ台湾は、共産党支援者がほとんどおらず、防衛、農業、食糧、インフラ、産業などが整備され、独立国家として生き残れる最適の場所だったからである。
張は、台湾に逃れると、蔣介石が再編した国民党で重要な地位を確立した。まず行政と軍隊の兵站を任され、その次は第1期国民大会(1948年4月)代表の一員となり、中国国民党中央評議委員会主席、そして教育部長となった。生涯最後の仕事は「中国文化大学」の創立だった。台北にあるこの大学は、本土から遠く離れたこの島を、より中国化するために作られた。せめて文化の面では「光復」を実現するかのように。
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