「家事は知的労働に劣る」という発想の大問題 料理を「毎日」作ることの大変さは語りきれない
だから家事の大変さ、例えば料理というのは、作るだけじゃなくて、メニュー考えたり、栄養考えたり、子どもの好き嫌い考えたり、冷蔵庫の中身思い出したりっていろいろなものが付随しているし、それが心の重荷になるんだよ、みたいなところから説明しないといけない。
阿古:そこの問題って結構大きい。ネットでも話題になった「ポテサラ事件」がありましたよね。スーパーでポテトサラダを買った女性が、男性に「ポテトサラダぐらい自分で作れ」って言われたという。料理を普段からしている人、ポテトサラダを作ったことがある人は、あれは手間がかかることをわかっている。野菜並べただけと違いますからね。
前島:すでに亡くなった自分の祖父も近い発言をしたことがあります。結婚のことを「飯炊きをもらった」って言うんです。笑いにはなったんですけど、家族で集まっていて場が一瞬凍り付きました。
阿古:戦前まではそうなんですよ。女の人が結婚するというのは、労働者とそして子孫を作る機会をもらったぐらいの感覚があった。下手すると奴隷兼子産み機みたいな扱いになってしまう。健康でなるべく若くて、体力がありそうな人が好まれたわけです。しかも、結婚をしたらすべの財産管理権を失うという。だから、父親がそう言うと、息子も「そうなのか」と思ってしまう循環が一部ではいまだに続いている可能性がありますね。
「手仕事<知的労働」という認識の問題点
前島:さらに根深いなと思っているのが、ギリシャ哲学にさかのぼると、心身二元論――要は、人間を精神と身体に分け、身体や物質を扱うより、心や哲学を扱う方が尊いという考え方があるのですが、それが残っているのではないかということです。
つまり、何か作業をしたりとか、手を動かすことが考えるより劣後するという感覚は人類社会全般に根付いているんじゃないか、と個人的には考えています。ケアとかエッセンシャルワーカーの問題も、根本にはそういう思想があるんじゃないか。何か手作業することが頭脳労働することに対して劣っているという感覚が相当強くあるのではないでしょうか。
家庭内でもそうした労働には賃金は必要ないという感覚が醸成されていますよね。例えば掃除とかは母親がやっているのをみていると、賃金が払われない労働だから誰にでもできるという感覚を持ってしまう。それだから、ケアやエッセンシャルワーカーが社会的に尊重されにくいということはあるのではないでしょうか。