「侮れない」家康が長篠で痛感、武田勝頼の驚く軍才 信玄亡き後、織田信長に評価を一転させた実力

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生まれながらの天才はいても、生まれながらにして名リーダーはいない。人々を率いて結束させるには、経験が必要となる。とりわけ手痛い失敗は名リーダーとなる必須条件といってもよいだろう。

ましてや勝頼は、とりわけ名将とされた信玄の病死によって重責を背負うことになった。迷いと葛藤、そして恐怖の連続だったに違いない。

だが、家康に長篠城を取られたことで、開き直ったようだ。天正2(1574)年の幕開けから、勝頼は積極的に打って出ることになる。正月に美濃へと侵攻すると、明智城を攻略。5月には、勝頼自身が遠江へと出馬した。狙いは高天神城である。

血気盛んな武田勝頼、高天神城を急襲

『徳川実紀』では、勝頼の好戦ぶりをこうつづっている。

「信玄の子で四郎勝頼は、血気盛んな勇者であったので、父親にも勝って万事において堂々と振舞ったが、去年長篠城を攻め取られたのに憤慨して、高天神城を急に攻撃した」

遠江支配の要となる高天神城は、もともと今川氏の支城だったが、今川義元が「桶狭間の戦い」で敗れたのを契機にして、城主の小笠原氏興は今川氏から徳川氏へと寝返っている。その後、家康によってほぼ遠江が平定されるが、家康と信玄は対立を深めていく。

元亀3(1572)年から、信玄は三河や遠江に出兵し始めた(西上作戦)。このときに、信玄は嫡男の勝頼とともに、二俣城を攻め落としている。

浜松城と高天神城を結ぶ二俣城が落とされたことで、高天神城は孤立させられてしまう。信玄亡き今、勝頼がターゲットにしたのが、このときに落とし切れなかった高天神城であった。

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