信玄の死によって勢いづいたのが、織田信長である。天正元(1573)年7月、信長は将軍の足利義昭を京から追放。室町幕府を事実上、滅亡させると、すぐさま朝倉・浅井攻めへと転じた。
越前へと侵攻を開始した信長軍の前に、朝倉方の諸城はあえなく陥落。朝倉義景に見切りをつけた家臣たちが敗走した。『信長公記』で朝倉方の混乱ぶりが描写されている。
「信長の予測どおり、朝倉義景の軍勢は敗走し始めていた。それを追撃して討ち取った首を、我も我もと持って来た」
朝倉義景は自刃して朝倉氏が滅亡すると、信長は同年8月に近江小谷城の浅井長政のところへと攻め込んで、やはり自刃へと追い込んでいる。朝倉・浅井を一気に滅ぼした信長。その躍動ぶりが、信玄の存在がいかに大きかったかを物語っている。
武田軍はおそるるに足らず?
家康もまた、信玄の死後に巻き返しを図っている。天正元(1573)年5月に駿府を攻撃し、さらに遠江の井伊谷へと攻め込んでいる。このときに武田勢がなすすべもなかったことから、家康は信玄の死を確認したという。7月には長篠城攻めを開始。信玄亡き武田軍のもろさが『三河物語』の記述からも伝わってくる。
「家康は浜松から岡崎へ向かう途中、長篠の城に武力偵察にやってきた。火矢を射させてみたところ、案外なことに本城、端城、蔵屋などがひとつのこらず焼けた。そのまま押しよせ攻めた」
迫りくる家康軍に勝頼は長篠城を取られまいと、山県昌景や穴山信君ら援軍を送るが、9月には落城させられている。信玄亡きあとの武田軍、おそるるに足らず――。常勝軍団が見る影もなくなり、そんなムードが漂っていたことだろう。
だが、経験の浅い者ほど、実戦のなかで急成長することがある。ここから亡き信玄のあとを継いだ勝頼が、攻勢に出始めることになる。
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