怒る武田信玄が猛攻、家康の窮地救った忠臣の正体 「3年間のうっぷんを晴らす」信玄が怒った根本原因

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『三河物語』では、家康が信玄と同盟を結んで今川領を切り取るにあたって、信玄から次のような提案があったとされている。

「家康は遠江を大井川までとれ、私は駿河をとろう」

これに家康が合意したため、「大井川を境界にし、東部を武田領、西部を徳川領にする」という密約が結ばれることになった。

家康と信玄の間に残ったわだかまり

ところが、信玄の戦略や戦術が記された軍学書『甲陽軍艦』のほうでは、密約の内容がやや違っており、こう書かれている。

「信玄公は駿河を治めるので、大井川を境にして遠州を、家康の手柄で切り従えてよい」

この場合は「家康が遠州を落とせるならば、手中にしてもよい」ということ。戦況に応じて、どちらが手にしてもよさそうなニュアンスになっている。

家康と信玄の間でどんな密約が交わされていたかは、研究者の間でも意見が分かれている。ただ確かなのは、武田方の秋山虎繁が率いる軍勢が、遠江の北部へと侵攻し、それに対して、家康が「約束が違う」と抗議している点である。それに対して信玄はすぐさま兵を引いていることからも、この時点では決裂に至っていない。

ただ、両者ともにわだかまりが残ったようだ。その後、家康は信玄への不信感を募らせて、同盟を破棄。宿敵の謙信のほうに近づいたのは前述したとおりである。そして、そんな家康の動きに対して、信玄は激怒し、以後「3年間の鬱憤」を募らせることになった。怒れる信玄が、大井川を渡って遠江に侵入してきたのは、元亀3(1572)10月10日のことである。その勢いはすさまじく、10月21日までに徳川方の高天神城が落とされてしまう。

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