城主は小笠原氏助で、もともとは今川氏に従属しており、のちに徳川側についた人物だ。掛川城の戦いや姉川の合戦で、徳川方として戦ったものの、このとき信玄に城を落とされたことで、武田方に従属することになった。また、遠江の寺社は次々と武田の庇護に入ったという。家康としては気が気でなかっただろう。
信玄は10月21日には「国中に兵を進めるべし」とみなに伝えている。国中とは、遠江の中心地である見付のことだ。もともと家康が居城を移そうと考えていた場所である(前回記事『徳川家康「姉川の戦い」前後で見せた驚異の対応力』参照)。
その後、信玄の本隊は木原、西島に布陣。掛川城や久野城が狙われると、そうはさせまいと、家康も浜松城から出陣する。『三河物語』では、両者の緊迫した動きが記されている。
「信玄は遠江へ出陣し、木原、西島に陣をおく。浜松からもいそいで、見付の原へ出陣する。 木原、西島を、偵察していると、敵はこれをみつけて、しゃにむに騎馬で攻めよせた」
本多忠勝らと武田軍が激突
念のため、補足すると、浜松から出陣を急いだのが徳川軍で、騎馬で攻め寄せた「敵」というのは武田軍のことだ。天竜川を渡った家康は見付に着陣。内藤信成、本多忠勝の一隊をさらに前進させて、三箇野台に布陣するが、武田軍に見つかってしまう。忠勝らは三箇野台で武田軍と激突することになった。
だが、大軍を率いる武田勢にかなうはずもなく退却。見付に戻ると、家康に戦況を報告して、ともに浜松への帰還をはかっている。しかし、あまりに武田軍の追撃が激しく、天竜川を渡り切れそうにない。そこで家康勢は時間を稼ぐために「見付の町に火を放つ」という大胆な方法に出ている。
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