それでも信玄はさらに上手だった。『三河物語』では、家康勢の思惑どおりに戦況が進まない様子について、次のように書かれている。
「火を放って退却したが、予想は外れて、敵は地理をよく知っており、上の台まで騎馬で追いかけてきた。そのまま一言坂のおり口で追いつかれた」
武田軍の猛追によって、一言坂の地で両軍は激突。兵力の差は歴然としており、家康が望まぬ形での交戦であった。
やりを振り回して猛攻をしのいだ本多忠勝
ほどなくして家康勢は浜松に撤退するほかなくなったが、やすやすと逃がしてくれる相手ではない。徳川幕府の正史である『徳川実紀』では、信玄を貶めながらも、その脅威をこう書いている。
「この入道(信玄)は、どこまでも性悪な人間で策謀や悪知恵の行動が多いが、戦術や兵法においてはよく統制する術を知っており、越後の謙信と並んで、当時はその右に出る者はいなかった」
なんとか窮地を脱するべく、本多忠勝と大久保忠佐の2隊が、撤退戦の殿(しんがり)を務めることとなった。家康率いる本隊とそれを守る内藤隊を逃すため、とりわけ活躍したのが、「徳川四天王」の1人、本多忠勝である。
忠勝は、蜻蛉切りのやりを振り回し、武田軍の猛攻をなんとかしのぐと、家康を無事に浜松へと帰還させることに成功。特徴的な両脇から鹿の角が生える兜(かぶと)が、どれほど頼もしかったことだろうか。
家康は本多忠勝の勇猛さに何度となく助けられているが、忠勝の名声を高めたのが、この「一言坂の戦い」であった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝<1>~<5>現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
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