家康「三方ヶ原の戦い」後の"変顔肖像画"のナゾ 本当に戦いの直後に描かれた肖像画なのか?

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「長篠戦役」とは、天正3年(1575)に行われた織田・徳川連合軍と武田勝頼軍との有名な長篠合戦のことである。織田・徳川方が鉄砲の大量投入により勝利した戦として知られている。

つまり、明治10年代には、本画像は長篠合戦にまつわる家康肖像画という話が付いてしまったのだ。この画像がなぜ長篠合戦と関連する家康肖像画とされたのかはわからない。この画像は元来「東照宮尊影」とのみ記録にあったものであり「長篠戦役」との関連を示す史料的根拠もない。また、三方ヶ原の戦いに至っては、姿形もない。

しかし、昭和10年(1935)11月に徳川美術館が開館し、その翌年(1936)1月に本画像が出展されると、異変が起こる。

メディアで情報が拡散される

「新愛知新聞」(同年1月6日)、「大阪毎日新聞」(同年1月6日)などのメディアに本画像は「三方ヶ原の敗戦で失意のどん底にある家康公を描いたもので」などと書かれるようになったのだ。

徳川美術館関係者の対談が同年1月14日に「新愛知新聞」に掲載されているが、そこには侯爵・徳川義親(徳川美術館創設者)の言葉として、三方ヶ原の戦いに敗れた、家康の「敗戦の記念だといふので、まるで痩衰へて、とてもひどい顔をしてゐる御畫像が遺つてをります」というものがある。

先述の新聞記事の内容も、徳川美術館関係者に取材して書かれたものであろうから、本画像が三方ヶ原の戦いにまつわるものとされたのは、同美術館関係者の情報提供によるものだ。

だが、なぜ三方ヶ原の戦いに関連するものとされたのか、その確かな理由はわからないし、そこにもまた「史料的根拠」があるわけではない。

つまり本画像は、家康の肖像画として、江戸時代より徳川御三家(紀州→尾張)に伝わってきたのは確かであるが、「長篠合戦」や「三方ヶ原の戦い」にまつわるものというのは、戦前に、確かな根拠もなく急浮上したものであり、それら合戦と本画像を結びつけることは、根拠となる新史料が発見されなければできないだろう。

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