家康「三方ヶ原の戦い」後の"変顔肖像画"のナゾ 本当に戦いの直後に描かれた肖像画なのか?

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『三河物語』には、大久保忠世が100人ほどの鉄砲部隊を率いて、敵陣に銃弾を撃ち込んだのを見た信玄が「我が方は勝ったが、なかなかの敵だった。徳川方の規律も乱れていると思ったし、負け戦では強襲は難しいのに、此度の夜襲。手強い敵だ」と言い、首実検(討ち取った敵の首を持ち帰り、誰のものか明確にする)をした犀ヶ崖(浜松市中区)を退き、井伊谷に入ったと書いてある。

これは、信玄の発言にしても、見てきたような話であり、どこまで本当かはわからない。とにかく、武田軍は戦で大勝したにもかかわらず、浜松城を攻めず、刑部(浜松市北区)で年を越し、三河国に進軍したのだ。

鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、夏目吉信、鈴木久三郎ら貴重な家臣を三方ヶ原の戦いで亡くした家康。

帰城した家康はこの負け戦、危難を戒めとするために、苦渋の顔を絵師に描かせたと言われてきた。「徳川家康 三方ヶ原戦役画像」(いわゆる顰像:しかみ像)である。

「家康」が顔をしかめ、歯を食いしばるその画像は見た者に鮮烈な印象を残す(筆者も徳川美術館で本画像を観覧したことがある)。窮地に立った自身の姿を後々の戒めとして描かせた「家康の器の大きさ」を示すものとして、大河ドラマなどでも肖像画を描かせるシーンが放送されてきた。

実は史料的根拠はない

しかし、この画像、三方ヶ原の戦い直後に描かれたという「史料的根拠」はない。まず、本画像は、18世紀の後半に、尾張徳川家当主(宗睦)の養子となった治行の妻・従姫(紀州徳川宗将の娘)の婚礼道具の1つとして、紀州徳川家から尾張徳川家に持ち込まれたものであった。

従姫が死去した翌年(1805)に、家康の遺品や関連物品を納める「御清御長持」が追納されるのだが、その際の記録には「東照宮(家康)尊影」とのみあり、三方ヶ原の戦いに関連するものとも、何とも書かれていない。

「御清御長持」は明治維新後、名古屋東照宮に保管されていたが、尾張徳川家に返され、明治13年(1880)には財産目録「御器物目録」が作成された。そこには、本画像は「東照宮尊影」とされつつも「長篠戦役陣中小具足着用之像」との追記があるのだ。

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