1995年単身ミャンマー入りした日本人医師の苦闘 感性の声に従い、それでも前に進もうと決めた

✎ 1 ✎ 2
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

農業国家で、1日働いても当時は50円ぐらいだったと思います。虫垂炎になるとか、ちょっとした病気になると何万円もかかる。だから大きな病気をすると、やっぱり死んでいくわけです。

当時のミャンマーの平均寿命は50歳ちょっとだったんじゃないでしょうかね。50歳ちょっとって、日本の戦前ぐらいですよ。それぐらいの健康状態の国でした。そこに僕は30歳の時、1995年に行くことになります。

もっともっと大きな町へ行くとね、こういうセメント、レンガを積んだ塗り壁の大きな病院があるんですけど、医者はあんまりいないですね。数人はおります。でも何科の医者がいるかはわからないですね。

ミャンマーの病院では子どもたちは点滴も受けられない状況だった(写真:NHK番組「最後の講義」)

この写真を見てもらったらわかると思うんですけど、子どもが入院してるじゃないですか。でも、日本と全然違いますね。点滴打ってる子が一人もいない。点滴1本の値段が、中国製の安い点滴だったんですけど、当時、彼らの日当ぐらいする。

ですから、おそらく感染症だったと思うんですけど、こういう子どもは朝晩、お尻に筋肉注射を打たれることになりますね。そうすると費用がかからないからです。まあ、こんな状態だったんですね。

ミャンマー中から人が集まった

僕は病院に行きながら、町の郊外に家を借りて住んでたんです。で、朝から晩まで働くことになるんですが。当時、とにかく電話も日本には通じないような、町同士でもろくに通じないような状況でしたから。

「ここに日本人の医者が住んでて、行けば、タダで診てもらえる」っていう話だけが広まって、ミャンマー中から人が集まります。借金してでしょうね。バス代借りたり、満員の電車に乗って、やってきます。

朝の5時ぐらいから、僕の家の前に押し寄せます。もうカーテン開けると、家の前は人だかりになります。この人たちを朝の5時過ぎから入れて、一生懸命診るんですね。8時半ぐらいまで診て、その後、巡回診療っていうのに出かけます。

政府の建物が各地にあって、助産師さんとか看護師さんを人ずつぐらい配置していたんですね。そこへ、月曜日ここ、火曜日ここ、水曜日ここと決めて行っていました。そしたら、その地域の人たちが来ますので。

でまた、夕方6時ぐらいに帰ってきますね。遠くから見ると、自分の家の前が人だかりなんです。それで、この人たちをまた夜の12時過ぎぐらいまで毎日診て、という日々をずっと過ごしていたんですね。

次ページ「先生、手術してください」
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事