1995年単身ミャンマー入りした日本人医師の苦闘 感性の声に従い、それでも前に進もうと決めた

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1996年、吉岡さんが訪れたミャンマーの病院。左端が吉岡さん(写真:NHK番組「最後の講義」)
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1995年ミャンマーに単身で入り、人口32万人の地域で、わずか1人の医師として医療活動を始めた吉岡秀人氏。それから25年以上活動を続け、いまでは海外で医療支援ができるスキームを作り、途上国で子どもたちを救い続けています。途上国での医療は決して簡単な道のりではありませんでした。NHKBS1・NHK総合の人気番組『最後の講義 吉岡秀人』の未放映分も収録した『最後の講義 完全版 吉岡秀人 人のために生きることは自分のために生きること』を一部抜粋し再構成のうえ、本稿ではミャンマーで活動を始めた頃の現地の様子についてご紹介します。
前回:『「偏差値30台」から医師を目指した意外なきっかけ
(※吉岡医師の「吉」の字は正しくはツチヨシ)

ミャンマーは国も医療制度もボロボロの状態だった

今から、僕が出会った子どもたちの話を紹介します。僕が行ったのは1995年のミャンマー。ひどい状態でしたね。ミャンマーの人口って日本の半分近くいるんですが、国家予算は数十分の1です。そして軍事政権で、医療保険には国家予算のうちわずか1%のお金しか回していなかったんです。あとは借金ですね。まあ、ボロボロだったんです、ミャンマーという国は。

最初に行って働いたところは、人口32万人でした。32万人に対して医者が何人いたかって言ったら、たった1人です。たった1人しかいなかったんですよ、医者が。

あと、病院って、彼らが「ホスピタル」って言ってたのは、たった2つです。1つには医者が1人、もう1つには、看護師さんが1人だけ配置されていました。看護師さんが、たった1人だけ配置されていた病院っていうのが、これ(冒頭の写真)ですね。

壁は竹で編んでボロボロだったんです。まあ、窓枠しかないですね。窓ガラスは当然ないです。ここに、その地域の人たちがやってくるわけですね。薬もほとんどないんです。

日本と違って国民皆保険ではありませんので、もちろん全額自己負担です。針1本から自分で買わないといけない。そして、医者とか看護師に注射してもらおうと思ったら、また彼らにお金を払ってやってもらわないといけない。そういう状態のボロボロの国だったんですね。

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