信長の人物像を形作った「信長公記」執筆の背景 本能寺での最期の様子も現場の侍女に聞き取り
作:太田牛一
年:1598(慶長3)年
構成冊数:16巻
分野:伝記・軍記物
数々の小説・ドラマのネタ元
日本史上トップクラスの知名度を誇る織田信長の生涯は、過去に何度も小説化・映像化されていますが、そこで描かれるエピソードの一番の“ネタ元”となっているのが、信長の一代記である『信長公記』です。
信長が室町幕府15代将軍・足利義昭(のちに信長によって京都を追放される)とともに上洛した1568(永禄11)年から、本能寺の変で自害を遂げる1582(天正10)年までの15年間が、1年で1巻、計15巻にまとめられています。それから「吉法師」と呼ばれた少年期から上洛するまでをつづった首巻を加えた、全16巻で構成されています。
作者は、信長の家臣であった太田牛一(おおたぎゅういち)です。歴史学において伝記や軍記物語は、書状などの一次史料をもとにした二次史料と見なされていますが、この『信長公記』は信長と同時代を生きた人物によって書かれており、一次史料と同等の扱いを受けています。
今日、『信長公記』と呼ばれている本は一つだけではありません。同書をもとにつくられた諸本(原本を同じくする写本や印刷本の総称)がいくつも存在しています。
たとえば、姫路藩、鳥取藩、岡山藩などの藩主を務めた外様大名である池田家に伝わる通称「池田本」は、織田家の重臣であった池田恒興の親族からの依頼を受けて、牛一自身が複製しました。池田本を含め、牛一直筆の『信長公記』は現在4組が確認されており、牛一以外によって書かれたものも含めると70組以上が過去に存在していたと見られています。
牛一は尾張国(現在の愛知県西部)春日井郡の生まれで、信長より7歳年長です。もとは尾張守護・斯波義銀(よしかね)や織田家家臣の柴田勝家に仕えていましたが、弓矢の腕を買われて信長に召し抱えられました。
その後は信長の側近となり、書記官である右筆(祐筆)を務めていたと見られています。非常に筆まめな性分であり、日々の出来事を日記やメモに書き留めていたことが『信長公記』の編纂につながるのです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら