信長の人物像を形作った「信長公記」執筆の背景 本能寺での最期の様子も現場の侍女に聞き取り
主君である信長のことは、当然好意的に書かれています。ただし、信長にとって都合の悪いことを無視していたわけではありません。たとえば比叡山延暦寺の焼き打ちに関しては、「根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い」「僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり」と、凄惨な様子を淡々とつづっています。
牛一は、池田本12巻の奥付で、「直にあることを除かず無き事を添えず、もし一点の虚を書するときんば天道如何、見る人はただに一笑をして実を見せしめたまえ」と、嘘偽りなく同書を書いたことを誓っており、こうした執筆姿勢も同書の史料的価値を高めています。
その旺盛な執筆意欲は、信長の死後も衰えることはありません。本能寺の変では、明智光秀の謀反を知った信長が、「是非に及ばず(だからどうした、今さら仕方あるまい)」と言い、奮戦の末に自害したことが広く知られています。これも牛一が、当時現場にいた侍女たちを通じて明らかにした事実です。今日の私たちが信長の物語を楽しむことができるのは、まさに牛一のおかげなのです。
ところで信長といえば、戦国武将の中でもいち早く鉄砲を合戦に導入し、戦国大名・武田勝頼との長篠の戦い(設楽原の戦い)では、3000挺の鉄砲で武田軍を一網打尽にしたと伝えられています。しかし、『信長公記』には「千挺ばかり」と書かれてはいるものの、「三千挺」という言葉はどこにも見られません。この合戦では別働隊も鉄砲を備えていましたが、その数は500挺ほどです。
庶民に読まれたのは『甫庵信長記』
じつは諸本の一つである池田本には、千挺を三千挺と修正した形跡があります。ただし、修正した人物も時期も不明であり、どちらの数字が正しいのかはわかっていません。
また、同じく諸本の一つである『甫庵信長記』でも三千挺と記されています。これは小瀬甫庵(おぜほあん)という江戸初期の学者が『信長公記』をもとに書いた軍記物です。
『甫庵信長記』は作り話も多分に含まれていることから、史料としての価値は高くありません。しかしながら甫庵は、同書以外にも豊臣秀吉の伝記である『甫庵太閤記』などを刊行しており、いわば当時のベストセラー作家でした。広く庶民に読まれたのは『信長公記』ではなく『甫庵信長記』であり、その内容が通説として広まっていったのでしょう。
そもそも『信長公記』は、江戸時代を通じて庶民の目に触れることはほとんどありませんでした。江戸幕府によって印刷本としての刊行が禁止されており、写本でしか広まらなかったのです。発禁の理由はいまも定かではありません。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら