北京ダックや肉まん…「中国の食」の奥深い歴史 歴史を知ると中国時代劇の楽しみ方が広がる

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また、宋の時代の蘇軾(そしょく)は、王安石が進める新法に反対して南の黄州に左遷された。そこで、晴耕雨読の生活を送り、南で一般的な豚の美味しさを知り、豚肉を煮込む紅焼肉(ホンシャオロウ)という料理を考案した。

その後中央に復帰するが、政争に敗れて今度は杭州に左遷される。そこで蘇軾は、工事に協力した人々に紹興酒で味をつけた紅焼肉を振る舞った。蘇軾は詩人・書家としても名高く、号を東坡(とうば)といった。人々はこの豚肉料理を蘇東坡にちなんで「東坡肉(トンポーロウ)」と名づけ、杭州の名物料理となったという。庶民から上流階級へ、そしてまた庶民へと伝播した料理の代表といえる。

美食を極めた宮廷料理の最高峰「満漢全席」

皇帝の食べる料理は、美味しいのはもちろんだが、むしろ健康面や安全面にも配慮しなければならない。古代から薬食同源の考え方が伝わり、バランスの良い食事が推奨された。また、食事中に毒殺された君主が多いことから、常に毒見役が置かれ、銀と象牙の箸が使用された。じつは銀や象牙には、毒を判定する効果があると考えられていたのだ。

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宋の時代、熱を外に逃がさないかまどの登場で、高火力の調理が可能になり、冷めにくい炒め料理が次々と生まれた。何人もの毒見役を経て、冷めた料理しか口にできなかった皇帝は、ようやく温かい食事を摂れるようになったといえるだろう。

やがて、元など異民族に支配されるようになると、宮中の料理はモンゴル風になっていく。南北朝時代、北魏の賈思勰(かしきょう)が記した『斉民要術』には、農業、牧畜などの方法に加え、料理についても記されており、遊牧民の間では古くから乾酪(チーズ)が作られていたことがわかる。また、元は肉食文化であり、海産物を用いた料理は好まれなかった。

明の時代に入ると、太祖の朱元璋が江南の出身だったため、南方の味付けが好まれた。一方、3代永楽帝は北京を都としたため、南方の料理と北方の料理が融合する。また、現在は高級中華食材の代表ともいえるフカヒレとツバメの巣の料理も明の初期に生まれている。

清の時代では、満州族の料理が持ち込まれた。4代康熙帝(こうきてい)は、質素な生活を心がけた名君として伝わるが、有名な「満漢全席」をはじめて作らせたともいう。満漢全席とは、満州人と漢人の料理をあわせたフルコースで、南北の食文化の粋といえる。さらに美食家であった6代乾隆帝(けんりゅうてい)により、満漢全席は100種類以上の料理が並ぶ豪華な宴会料理として完成した。とても一日では食べきれないため、舞台などを見ながら数日かけて食したという。

乾隆帝の時代には、皇帝専門の帝国厨房が存在し、内部厨房と外部厨房に分かれていた。内部厨房は肉料理、野菜、焼き物、パンと米料理を担当し、外部厨房は宴会や儀式での料理を担当した。歴代王朝でも最大規模の厨房だったが、清の衰退とともに縮小されていく。

菊池 昌彦 フリーライター
きくち まさひこ / Masahiko Kikuchi

雑誌編集者を経て2000年よりフリーライターとして活動。アジアの映画、音楽などエンタメのほか歴史にも通じ、雑学本から児童書まで幅広く執筆。

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