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親にとって、子供というものはいくつになっても子供
幸雄は、絹代のことを思い出していた。
幸雄は子供の頃に三度死にかけている。その三度とも絹代がそばにいた。
一度目は二歳のときにかかった肺炎で、四十度近い高熱と咳が長く続いた。現在、肺炎は医学の進歩により治療に有効な抗生物質が処方され、治りにくい病気ではなくなっている。肺炎の原因も、幼児期にかかりやすいものは、主に細菌、ウイルス、マイコプラズマなどと言われ、治療法も明確になった。
ただ、一昔前は医者でさえ「何もできない。最善は尽くしました。あとはお子さん次第です」と言われるケースも少なくはなかったという。幸雄の場合も、当時はそれが細菌性のものであることがわからず、四十度近い高熱と激しい咳が続き、医者からは「覚悟をしておいてください」とまで言われた。
二度目は七歳のときに川遊びで溺れ、心肺停止の状態から奇跡的に一命を取り止めた。発見したのが地元の消防署に勤める職員で、人工呼吸などの応急処置が適切だったため助かった。絹代が一緒にいたのだが、目を離した一瞬の出来事だった。
三度目は十歳のときの交通事故である。新しく買ってもらった自転車に乗って出かけていたときに、信号を無視して突っ込んできた車に、一緒にいた絹代の目の前で撥ねられた。幸雄の体は十メートル近く飛ばされ、全身打撲で救急搬送された。生死の境をさまよったが、頭部への損傷はなく、奇跡的に意識を取り戻した。
親にとって、子供の病気や怪我、事故は避けては通れない。絹代はこの三度とも、幸雄が快復するまで不眠不休の看病を続けた。トイレ以外は幸雄のそばを離れず、ずっと幸雄の手を祈るように握り締めていた。夫や両親が絹代の体を気遣って休むように言っても、聞く耳を持たなかった。子を思う親の愛情に際限はない。そして親にとって、子供というものはいくつになっても子供なのだ。
その思いは、幸雄が陶芸家を目指すと言って親元を離れても変わらなかった。
幸雄は、京都の有名な陶芸家に弟子入りしたが、共同の寝床を与えられ、食事だけは出たが、給料が出るわけではなかった。そのため、昼間は窯元で働き、夜はコンビニエンスストアや居酒屋などでアルバイトをした。
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