二十代の若い頃なら無理もできたが、三十代に入ると体力的にも厳しくなった。窯元から、わずかな給料をもらえるようにはなっていたが、いつまでも共同の部屋にいるわけにもいかず、アパートを借りるようになると一気に生活は苦しくなった。
それでも将来、自分の窯を持つために、少額ではあるがコツコツと貯金をし、絹代から時々、手紙と一緒に送られてくるインスタントの食材などで食いつないできた。
一週間に千円も使えないときもあった。同世代の若者が就職して、恋や車に青春を謳歌しているときも、一心不乱に土をこね、陶芸家として認められるその日を目指して窯の前で煤まみれになった。
自分には才能がないと、あきらめかけたことも何度かあった。三十代を越えて、アルバイトを続けてまでやることではない。就職するなら、早くあきらめる方がいい。この就職難に、四十歳を越えれば採用してくれる会社なんてない。今でさえ、厳しい。いつまで続けるのか? いつになったら陶芸家として成功できるのか? 未来の見えない不安。保障のない生活。結婚もできず、ただ、ただ、毎日、土と格闘するばかり。
それでも、わずかな希望にしがみついた。この夢を実現できれば喜んでもらえると、喜んでくれる人がいると、それだけが支えだった。馬鹿にされても、笑われても、絹代だけが幸雄の成功を信じてくれていた。
それなのに……。
何のために生きてきたのか?
全財産を奪われた挙句、多額の借金を負わされるとは夢にも思わなかった。
一番苦しいとき、一番誰かの支えが必要なときに、絹代が死んだと知らされた幸雄は、絶望の淵に突き落とされた。
なぜ、このタイミングで?
なぜ、自分だけがこんな苦しい目にあわなければいけないのか?
何のために生まれてきて、何のために生きてきたのか?
メーテルリンクの『青い鳥』にこんな話がある。
チルチルとミチルは「未来の国」で三つの病気を持って生まれるのを待つ子供と出会う。その子は、生まれてすぐにしょうこう熱と百日咳と麻疹にかかり、死んでしまうのだという。幸雄は子供の頃、この本を読んで悲しい気持ちになったのを思い出した。
それが運命なら、変えられぬ運命なら、なんと人生とは不公平なのだろう。幸雄は、この不公平な運命を自分で変えることができないのなら、人は何のために生まれてくるのだろうと思った。
気づくと、幸雄の目に涙があふれていた。それが涙だとわかったのは、手で頬を伝う涙を拭ったときだった。湯気だった手は元に戻り、上から下に流れていたまわりの景色も、いつの間にか止まっていた。
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