もし、過去に戻って現実を変えることができるというのであれば、こんな結末を選ばなかったかもしれない。どんな手を使ってでも、目の前にいる母親をいい病院に行かせる努力をしただろう。今、カウンターの中にいる見ず知らずの大男に事情を説明し、頭を下げたに違いない。
だがそれは、もう叶わない。
幸雄は生きる意味を見失っていた。絹代を悲しませたくない。その一心だけで、騙されても、どんなに苦しい状況になっても踏ん張ってきた。親より先に死ぬわけにはいかないと、前を向いて生きてきた。
だが、その絹代は、現実に戻れば、もういない……。
幸雄は穏やかな表情で、絹代に話しかけた。
「俺、やっと陶芸家として自分の窯が持てることになったんだ」
「本当に?」
「嘘じゃないよ」
「……よかった」
絹代の目から涙があふれ出た。幸雄は、
「泣くことないだろ?」
と、テーブルの紙ナプキンを差し出す。
「だって……」
そのあとは言葉にならなかった。幸雄は、そんな絹代の姿を見つめながら、おもむろにジャケットの内ポケットから何かを取り出して、
「だから、これ……」
と、絹代の前に差し出した。それはかつて幸雄が京都に旅立つときに、絹代から渡された通帳と印鑑だった。
「苦しくなったら使わせてもらおうと思ってたけど、使わずにすんだから……」
どんなに生活が苦しくても、このお金だけは使うことができなかった。自分の成功を疑わず、信じて送り出してくれた母の想いが詰まったお金だから、陶芸家として成功したら返そうと心に決めていた。
「でも、これは……」
「いいんだ。これがあったから今までどんなに辛いことがあっても乗り越えてこれたんだ。これがあったからがんばってこれた。これを母さんに返すためにがんばってきたから……」
嘘ではなかった。
「受け取ってほしい」
「幸雄……」
「ありがと」
幸雄は、深く頭を下げた。絹代は差し出された通帳と印鑑を受け取り、祈るように胸の前で抱きしめた。
これで楽になれる
(これで、思い残すことはない。あとは、コーヒーが冷めるのを待つだけでいい)
幸雄は最初から、現実に戻る気はなかった。
絹代が死んだと聞かされてから、この瞬間だけを思い描いて生きながらえた。ただ死ぬわけにはいかない。借金を残せば、家族に迷惑がかかる。
幸雄はこの一か月、必死で自己破産の準備を進めてきた。葬儀に出るための交通費すらなかったが、日雇いのバイトをくり返し、弁護士に支払うだけのお金と、ここに来るだけの交通費を捻出した。すべてはこの瞬間のためだった。
緊張の糸が切れたのか、幸雄は全身から力が抜けていくのがわかった。ここ一か月はまともに寝ていなかったのも原因だろう。幸雄の疲労は極限に達していたが、すべてが終わろうとしている、今、幸雄の心には、
(よかった)
という満足感と、
(これで楽になれる)
という解放感だけがあった。
そのときである。
(1月7日配信の次回に続く)
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