「なに? どうしたの?」
京都にいるはずの幸雄が突然この喫茶店に現れたことに、絹代はかなり驚いていたが、目は嬉しそうにキラキラしている。
「ちょっとね」
幸雄も笑顔で返した。
絹代は、陽介に小さな声で「ありがと」と伝えると、一人で幸雄の座るテーブル席に向かって歩き出した。途中、
「流さん、私にコーヒーを、こちらにお願いできますか?」
と、ていねいな口調で告げた。流は「かしこまりました」と答えたが、その注文を聞くまでもなく、すでにさっき挽いた豆をドリッパーにセットし、蒸らしの湯を注ぎ終えるところだった。絹代はいつも決まった時間に来るので、流はそれに合わせて豆を挽いていたのだ。陽介は、流と向かい合わせになるように、ちょこんとカウンター席に腰掛けた。
「陽介君は何にする?」
「オレンジジュース」
「かしこまりました」
流は陽介の注文を取ると、ポットから、ドリッパーの中の豆の中心に“の”の字を描くようにお湯を注ぎはじめた。
店内にコーヒーの香ばしい薫りが漂いはじめた。絹代は、この瞬間がたまらなく好きなのだろう、幸せそうにニコリと笑顔を見せ、幸雄の向かいの席に「よいしょ」と言いながら、腰を下ろした。
絹代は、何十年も前からこの喫茶店に通う常連客である。もちろん、ここのルールをよく知っている。この席に座っている幸雄が未来から来たことは言わなくても理解しているだろう。幸雄はこの状況で、未来から来た理由を聞かれるのだけは避けたかった。
亡くなった母に会いに来た……
なんて、口が裂けても言えるわけがない。幸雄はとにかく何か話さなくてはとあせってしまい、つい、
「ちょっとやせた?」
と口走ってしまった。言った瞬間、(しまった)と心の中で舌打ちをした。
癌だと診断されていなかったとしても、入院前なのだから、やせていて当然なのだ。幸雄は、話題が病気のことになるのだけは避けたかった。握りこぶしの中は汗びっしょりである。
だが、絹代は、
「あらそう? 嬉しい」
と、言って、頬を両手で押さえ、喜びの仕草を見せた。幸雄はその反応を見て、
(もしかして、まだ、自分の病気のことを知らないのかもしれない……)
と思った。入院してから告知されるケースもある。絹代が自分の病気のことをまだ知らないのであれば、この反応は普通である。
(……よかった)
幸雄は、ほっとして、自分もできるだけいつも通りの言葉遣いになるように気をつけながら、
「嬉しくないだろ、今更……」
と、ちょっと吐き捨てるように笑いながら言うと、絹代は真顔で、
「そんなことないわよ」
と、答えた。
「お金に困ったら、人に借りずに、ちゃんと言うのよ?
「あんたもちょっとやせたんじゃない?」
「……どうかな?」
「ごはん、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ、最近はちゃんと自炊も始めたんだ」
幸雄は、絹代の訃報を聞いてから、まともな食事をしていなかった。
「あら、本当に?」
「もう、カップラーメンばかりの生活じゃないから安心して」
「洗濯は?」
「ちゃんとやってる」
もう一か月近く、同じ服を着ている。
「どんなに疲れてもちゃんとお布団で寝るのよ」
「わかってる」
自宅アパートはもう解約済みだった。
「お金に困ったら、人に借りずに、ちゃんと言うのよ? たくさんは出せないけど、少しならなんとかなるから」
「大丈夫……」
自己破産の手続きは昨日終わった。もう、多額の借金で、絹代や京子に迷惑をかける事はない。幸雄はただ、
最後に、絹代の顔を見たいだけだった。
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