ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ……。
豆を挽く音で幸雄はカウンターに目を向けた。天井で回るシーリングファンも、シェードランプも、大きな柱時計も、数秒前と何一つ変わらない。ただ、カウンターの中にいる人物だけが違う。ゴリゴリと豆を挽いているのは、見たこともない、糸のように細い目の大男である。幸雄は店内を見回したが、幸雄の他にはその大男しかいなかった。幸雄はすぐに、
(本当に過去に戻ってきたのか?)
という疑問を抱いたが、確かめる方法は思いつかなかった。
確かに、数というウエイトレスは姿を消し、カウンターの中には幸雄の知らない大男がいる。自分の体が湯気になり、まわりの景色が上から下へと移動するのも見た。それでも、ここが過去であると信じることはできなかった。
カウンターの中の大男は、幸雄が現れたというのに、平然とゴリゴリと豆を挽いている。見知らぬ幸雄がこの席に突然現れたとしても、大男にとっては日常茶飯事に違いない。しかも、幸雄に話しかける気もなさそうである。
それは幸雄にとっても好都合だった。ここへ来て、あれこれ聞かれても答える気はない。ただ、ここが幸雄の望んだ、絹代の生きている過去であるかどうかだけは確認したかった。
絹代が入院したのは半年前の春だと京子に聞いていたので、幸雄は「今は、何年の何月ですか?」と聞くために、
「あの」
と大男に声をかけた、そのときだった。
カランコロン。
まさか、これほどとは……
「こんにちは」
構造上、この喫茶店はカウベルが鳴った直後だと、誰が入ってきたかはわからない。しかし、その声が誰なのか、幸雄にはすぐに分かった。
(母さん……)
しばらくレジ横の入口に目を向けていると、陽介に肩を借りて、おぼつかない足取りで入ってくる絹代が見えた。
「あ……」
絹代の姿を目にした瞬間、幸雄は絹代から見えないように顔を伏せ、唇を噛みしめた。
(入院直前に来てしまったのか……)
幸雄が最後に絹代の姿を見たのは五年前だった。その頃は、絹代はまだまだ元気で、人に肩を借りないと歩けないということはなかった。だが、目の前に現れた絹代は、ひどくやせ衰えていた。目は窪み、頭は白髪に覆われている。陽介が握る手には血管が浮かび、指の一本一本は細い棒のように見える。すでにここまで絹代の体は病に蝕まれていたのである。
(まさか、これほどとは……)
幸雄は、そのまま顔を上げることができなくなってしまった。
幸雄がそこにいることに、最初に気付いたのは陽介だった。
「おばあちゃん……」
陽介は、絹代の耳に向かって小さな声でそう呼びかけると、ゆっくりと絹代の体を幸雄の方に向けるのを手伝った。おばあちゃん子の陽介が手となり足となって、弱った絹代を支えているのがよくわかる。
陽介の視線の先に幸雄の姿を見つけた絹代は、目を丸くして、
「あら……」
と、小さな声でつぶやいた。
幸雄は、絹代の声を聞くと、さっと顔を上げ、
「元気そうだね」
と、声をかけた。数と話していたときより、明るい声である。
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