NPO法人の代表は僧侶でもあり、阿弥陀堂での参拝は月1回の予約制。最長で5年が過ぎても引き取り手が見つからないお骨は別の場所に合祀される。同様の業務委託契約を結ぶ自治体はもうずいぶん前から増えているという。
参拝後、近くのファミレスで斎藤さんとお茶を飲んだ。少しだけタイゾウさんの話をしたいと思ったからだ。
雇い止めにされることが増えた
当時の取材メモによると、タイゾウさんは高校卒業後、大学進学を目指して故郷の秋田から予備校のある東京に出てきた。しかし、希望する大学には受からず、そのまま東京で働き始める。30代でバブル景気を経験。このころは正社員を含め、「まともな仕事はいくらでも見つかった」。潮目が変わったのは2000年代に入ってから。雇い止めにされることが増え、正規雇用の仕事は見つからなくなった。次第にパートやアルバイト、日雇い労働を掛け持ちして生計を立てるようになっていく。
几帳面なタイゾウさんは大学ノートに勤務先ごとの労働日数や賃金がわかる自前の「出勤簿」を付けていた。飲食店や郵便局でのアルバイト、場外馬券売り場の警備員、斎場の駐車場管理――。ダブルワーク、トリプルワークの時期もあり、休みがなかったり、夜勤シフトが多かったりする月は手取りで十数万円になったものの、仕事がない月は3万円を切ることもあった。
節約のため家賃の安いアパートに引っ越しもした。エアコンはなく、夏場の日中は冷房の利いたスーパーや図書館で過ごし、冬場は風呂に入る代わりに石油ストーブで沸かした鍋の湯で体を拭いて水光熱費を抑えた。
50代半ばのとき、運送会社の倉庫での仕分け作業中に腰を痛めた。ところが、会社からは労災ではないと言われてしまう。困り果ててユニオンネットお互いさまに相談すると、会社は手のひらを返したように労災を認めた。あわよくば労災隠しをしようという魂胆が丸見えの典型的な悪質企業の手口である。
以来、ユニオンとの関係は10年あまり。長い付き合いとはいえ、斎藤さんはなぜそこまでタイゾウさんのために奔走したのだろうか。私が尋ねると「(タイゾウさんは)うちのユニオンが発足したばかりのころからの組合員。優しくて真面目な人でね。自分の問題が解決した後もほかの組合員の裁判を傍聴しに来たり、ビラ巻きを手伝ってくれたりしたんだよ」と教えてくれた。自らの問題が解決するとユニオンを脱退する人も少なくない中、タイゾウさんは義理堅かったという。
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