「生活に支障出るほど感情移入」ふかわさんの苦悩 年を重ねるほど周囲の顔色に敏感になっていく
――ふかわさんは、芸能界で今のようなスタイルを見出すまで、いろいろと悩んだそうですね。著書にも、「自分が何者でもないことに葛藤を抱いていた時期があった」とありました。
「らしくない」って、よく言われていたんです。「らしくない」っていうのは、「お笑い芸人らしくない」とかです。今でこそ、ほめ言葉も含まれていたんだなと理解できますが、当時はそう汲み取れませんでした。
デビューした当時の27、28年前は、芸人とはこうあるべきという慣習がまだ残っていて、「芸人だったら、まず耳を出せ」などと、見た目の部分でもたびたび指摘されました。
礼儀については自分でも意識していましたが、まずロン毛ですし、コンビで漫才やコントをやるわけでもありません。いきなりDJを始めたときも、とにかく「らしくない」と言われました。
それでも自分の好きなことに取り組んできましたが、時折周囲から聞こえてくる「この人って、何がやりたいの?」「何者なの?」という声……。自分でも薄々感じるからこそ、コンプレックスを抱えていました。
そのときにふと目に留まったのが、雑誌の中の「何者でもない人、という価値」という見出し。ラジオ局員のインタビュー記事でした。その言葉になんだか救われた気がしたんです。
――どのように救われたのでしょう。
何者でもない、しっくりくる肩書がないことが、むしろ自分の個性であり、胸を張れることなんじゃないかって。
タモリさんや所ジョージさんやいとうせいこうさんを、一つの職業や肩書でおさめられるかというと、できません。でも、ゆるぎない、圧倒的な存在感があります。
そうした憧れの大先輩の姿を見ていくうちに、何者でもないこととか、らしくない自分をだんだんと受け入れられるようになって。30代になってからですね、そう思えるようになったのは。もう開き直りに近いのかもしれません。
この仕事合ってるのかな、と疑うぐらいがいい
――私自身も何者かになりたくて、自作の肩書を名乗ってみたことがありましたが、あとで変だと気づいて恥ずかしくなりました。
「自分は何者なのだ」と苦悩するプロセスは、むしろあっていいと思います。揺らぎがあるほうが、人間らしいですし。
特に日本人は「この道ひと筋」とか、専門性を極める美学があるじゃないですか。それはそれであってもいいと思いますが、そうじゃないものも存在していいと思うんです。
例えば、軸足はライターだけれども、そこに縛られる必要はありません。ほかの関係なさそうな仕事をやっていたとしても、そこに冷めた目を向けるのは今の時代、違うと思っていて。本業・副業の概念はもうなくなっていいんじゃないかと思います。
逆にめちゃめちゃしっくりくる場所に来ちゃうと、それはそれで怖い気もするんですよ。「俺、この仕事超向いてるぜ!」と自信を持つのが功を奏す職種もありますが、「自分、この世界本当に合ってるのかな……?」と疑問を持つぐらいのほうが、多くの仕事は長続きする気がします。
「自分は向いていないからダメなんだ」って、ネガティブなほうに引きずられるんじゃなくて、その揺らぎをある種の動力というか、味方にしたほうがより長く仕事を楽しむことができると思います。
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