審査員だった、落語家の桂米朝さんが
「君は爽やかな高校生だね」
と褒めてくれた。
「次の日学校に行ったらみんなにもてはやされたんですけど、
『森脇はすぐに校長室にくるように』
と校内放送で担任の声が流れたんです。そうなったらみんな手のひらを返して、
『テレビ出たらあかんかったんちゃうん?』
『停学になるんちゃう?』
と脅かされました」
恐る恐る校長室に行くと、担任も校長先生も笑っていた。
「桂米朝さんがあなたのことを爽やかな高校生だと褒めてらした。素晴らしい。あなたは何部なんですか? 陸上部? 早くやめて、お笑いの世界に行きなさい」
「校長先生には人間国宝である桂米朝さんが『爽やかな高校生だ』って言ったのがかなり効いたみたいです。
そこからは学校のお墨付きになって、学園祭などでは好きなようにやらせてもらえました」
大学に通いながら舞台に
学校を卒業した後には桃山学院大学の社会学部に進学した。
松竹芸能のマネジャーの
「なるべく普通の学校で、一般的な体験をしたほうがいい」
というアドバイスに従って大学を選んだ。
大学では陸上部も続けていた。
「大学はあんまり真面目に行ってなかったですね。その頃から、舞台に出るようになりました。松竹芸能からは、野球でいったらドラフト1位の扱い。大プッシュされてました。
でも実際に舞台に上がると、全然受けないんですよ。壇上で漫談をやっても、お客さんはクスッとも笑わない。それで舞台を下ろされることもありました」
ふと、大先輩の芸人、若井はやと師匠の舞台を見ると、お客さんは爆発するように笑っていた。
「自分とは何が違うんだろう?」
と思って見ていると、飲みに誘われた。
「はやと師匠は芸人どうしで夕方の4時くらいから深夜の3時くらいまで、延々としゃべってるんですよ。で、ずっと延々に面白いんです。
プロの壁ってこんなに分厚くて、こんなに高いんだって驚きました」
時代はバブル景気の頃だった。
芸人もいわゆるタニマチからお金をもらい懐はあたたかかった。
「はやと師匠に弟子入りして、ずっとそばにいさせてもらいました。
しばらくした後に舞台に上がったら、ちょっとウケるようになってきました。
師匠に、
『ちょっとずつ覚えてきたな』
って言われました。今思うと、笑いって伝承芸という面も大きいですね。師匠とずっと一緒にいたからコツを掴めたんだと思います。
あの演芸場でしゃべってた人たちも多くは亡くなってしまいました」
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