盲学校併設の施設で育った40代女性の勇敢な半生 もう「そんなの無理だ」と言われても気にしない

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一番つらかったのは、実家にいるときだった。夏休みなどは施設が閉鎖になってしまうため、実家に行かざるをえなかったが、父親の再婚相手は何度も替わり、どの人物もソラさんを虐げた。食事を出さない、布団を替えない、存在を無視する。しかも、父親は家にいたためしがなかった。

「自分の誕生日がある春休みが一番しんどかったですね。何のために生きているんだろうって、いやでも考えちゃう。実家よりはまだ施設のほうが『安全』だけど、どっちも『安心』できる場所ではない。だから、いつもサバイバルで、『生き残んなきゃ』みたいな危機感がある。『この戦闘態勢が崩れたら、私はたぶん生きていけなくなっちゃう』みたいな予感はありましたね」

鬱のようになり、大学は中退することに

外に出たい。外に出たい。自由が欲しい。長い間、施設で暮らしてきたソラさんのなかには、抑圧されたエネルギーがあふれるほど溜まっていた。

東京の大学に行きたい。でも、盲学校の先生も施設の職員の先生も、「あんたは女の子なんだから大学の必要はない」「按摩マッサージの資格を取っておけば食べていける」と言って、誰も応援してくれない。

推薦状がもらえないなら、自己推薦で進学するまでだ。ソラさんは大学案内をどんどん取り寄せ、ひとりでオープンキャンパスをまわった。

「受験や進学の費用だけは、父親に頭を下げました。『ここに至るまで、あなたには一切お金をかけさせていないんだから、これだけは』って」

高校を卒業すると、ソラさんは上京して一人暮らしをはじめ、大学に通った。ものすごい解放感だった。これまで受けていたあらゆる抑圧が、いきなりゼロになった。

「そうしたら、身体を壊しちゃったんです。身体なのかメンタルなのか、鬱みたいな無気力になっちゃって、学校に行けなくなっちゃった。誰も連絡もくれないし、もしこのまま家で一人で死んじゃっても、誰にも気づかれないんだろうなって」

誰からも何も期待されていない自分。生きている意味はあるんだろうか。そんなことばかり考えていた。大学2年の春、やむなく中退する。

その後、ソラさんはどうやって生きてきたのか。

「そのときに興味をもったことを、いろいろやってきました。職業訓練校に入ってパソコンのスキルを磨いて、大手企業のOLになったりもしたんですけれど、私にはまったく合わなかった。私は人と話したりものを書いたりするのが好きなんですけれど、誰とも会話せず、ただひたすらずっと伝票を打ち込んでいる仕事で、本当につらかった。

人事の人に『もうちょっと人とかかわる仕事がしたいんです』って相談したけれど、『いま、うちの会社で頼めそうなのは、その仕事しかない』って言われて。視覚障害者として向くことと、性格的に向くことが、全然一致しないんですね」

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