それなら、父親と母親はどこにいるのか? 祖父や保育園の先生に尋ねると、「お父さんは仕事で忙しいから」と口を揃えた。母親のことは、誰も何も教えてくれなかった。
父親は、たまに家を訪れた。おじいちゃんと話をして、お金を渡し、ソラさんには「じゃあな、元気にしてろよ」と声をかけ、すぐにまたどこかへ消えてしまう。
唐突に、児童養護施設へ
「おじいちゃん、もう80を過ぎていたのに、よく幼児を育ててたなって思います。保育園のお弁当も用意して。節約もしてました。10キロぐらいの、茶色のでっかいお米の袋あるじゃないですか。あれ、腕と頭を通すところをチョキチョキって穴開けてくれて、雨の日はそれをカッパの代わりにガブってかぶせられて、保育園から家に帰る。胸のとこに、真っ赤なバラの絵(産地のマーク)があったのだけ鮮明に覚えてます」
祖父との生活は、唐突に終わった。病院で検査を受けた頃から、祖父はよくソラさんを連れて児童相談所へ通っていたが、小学校に上がる少し前のある日、祖父はソラさんを相談所に残して帰ってしまった。
「何も状況を説明してくれなかったですね。少なくとも、私が理解できる説明はなかった。『今日からここに泊まるんだよ』みたいに言われたけど、『なんで?』って。ちゃんと話してくれれば、いろいろわかったんだけどな。その日の夜はもう、わけがわからなかったですね。急におじいちゃんがいなくなっちゃったから、『見捨てられた』みたいな」
恨みは一切ない。別れた後、祖父は病気で入院してしまい、ソラさんは見舞いにも行った。一緒にいたかったけれど、しょうがない。おじいちゃんなのだから。
児童養護施設に入ると間もなく、年上の男の子がソラさんのところにやってきて、「お前はここから一生出られないんだぞ」とはやし立てた。理由を尋ねると、数人の子どもが集まってきて、ここにいる仲間たちの事情をかいつまんで説明してくれた。
以来ソラさんは、盲学校と同じ敷地内に併設された、この施設で暮らすことになる。小1のソラさんが一番年少で、上は中学2年生まで、7、8人の子どもたちが住む寮だった。
児童相談所の判断で盲学校に入ったが、ソラさんはそこでは「すごく見える人」になった。いわゆる通常校では「見えない部類」にされてしまう「どっちつかずの見え方」だったのだ。
なお、最近は弱視なら通常校に通うことが多いようだ。当時から盲学校の児童生徒数は減っており、ソラさんより後にその施設へ入る子どもはいなかったという。
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