インド人ジャーナリストがみた日本食と職人精神 世界の日本好きから読まれたインド人の日本論

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インドはインフラ整備のために技術力と投資を必要としている一方、日本には資本とノウハウがあるように、双方が協力すれば相乗効果が出るのは明らかだ。それにもかかわらず、日系企業にとってインドビジネスが非常に難しく映るのは、この「ジュガール」と「職人」という二項対立が一因だ。インド的な解決方法は、抜け道を見つけ、破れた箇所を繕うということに尽きる。日本ではこれは、忌み嫌われるアプローチなのだ。

職人流が日本で唯一のやり方ではない。東京の料理人が全員、完璧さにこだわるというわけではないのだ。飲みに行くために早く仕事が終わってほしいと思っているいい加減な料理人だって、日本にもある程度いるはずだと思う。だとしても、全体として見れば、向き合う姿勢や準備、提供の仕方といった料理に対する丁寧さの水準は、わたしが知るほかのいかなる国と比べても別次元だった。

東京のレストランは小規模でカウンター席しかないことが多く、外国人にとっては落ち着ける雰囲気ではないと映るかもしれない。しかし、往々にして外食の目的は一緒に行く相手との会話を楽しむためというよりも、料理人の技をかぶりつきの席で見ることにある。彼(料理人はおそらく男性なので)の所作はその優雅さという点でバレエのようで、確実さという点でマジックを思わせる。食材のよさを極限まで引き出す術を会得しているかのようなのだ。

だが、食というシンフォニーを統べる達人的な指揮者になるには、つらく長い道のりを歩まなくてはならない。職人になるための修行は非常に過酷で、師匠と弟子は、サービス提供者と顧客の関係というよりは、主人と奴隷の関係に近い。この師弟関係は、インドにおける「グル・シーシャ関係」に通じるところがある。受講料を払ってプロから技を教わるというのではなく、師に身を委ね、全面的な服従を通じて献身を表現するのだ。『マハーバーラタ』(『ラーマーヤナ』と並ぶ古代インドの叙事詩)にドロナーチャーリヤが「グル・ダクシナ(寄進物)」としてエーカラヴィヤに親指を切るよう命じる一幕があるが、これは他の国の人びと以上に日本人であれば納得できる物語ではないだろうか。

早朝からの寺院掃除に驚く

2018年秋のある朝、わたしは睡眠不足のため目がぼんやりした状態で、職場へ向かう通勤客で満員の電車に乗った。行き先は東京中心部にある光明寺という寺院だ。移動中、わたしは世俗と霊性を隔てる壁の透過性が驚くほど高いことについて思いを巡らせていた。日本各地でもっともよく見かける建造物と言えば、一つはコンビニ、もう一つは寺社だ。長い歴史を持つ寺院の後方にセブンイレブンがあったり、神社では鳥居の奥にファミリーマートが見えたり、という具合に。

光明寺は、さほど目立つ感じではない、2階建ての本堂を持つ寺院だ。利用客でごった返す東京メト口神谷町駅からわずか300メートルしか離れていない。だが、境内に足を踏み入れると、そこは300年前に移動したかのような気持ちにさせられた。朝の空はまだ青白かったが、多種多様な人びとが集まっていた。スーツ姿でネクタイを締めたサラリーマンが数人いるかと思えば、シルバーのトートバッグを背負ったおしゃれな女性の姿も見られ、すり減った革靴を履いた老紳士もいた。時計の針が7時半を指すと、参加者は上着を脱ぎ、鞄をを置いて箒やちりとり、バケツに持ち替えた。

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