ロシアを相手に交渉で問題解決を到底望めない訳 ウクライナで近年起こった事例から浮かぶ背景

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以下、ユーロマイダンに参加したニコライが記録した内容を紹介します。

2013年11月から、キーウの独立広場で政権に対する抗議行動が始まります。最初は野党のSNSによる呼びかけで始まり2000人ほどが集まりました。さらに、11月24日には、大規模な集会が開かれ、5万人以上が集結します。中には暴徒化して政府庁舎を襲う者もいたため、警察が出動し鎮圧しました。

抗議行動は続き、ヤヌコーヴィチ大統領の辞任、政治腐敗の撲滅や人権擁護活動として広まり、次第に勢力を増していきます。キーウの独立広場にテントを立て占拠する人々も現れます。

強硬な民警ベルクトと過激なサッカーファン

一向に収まらない抗議活動に対して、政府は強硬な態度を示し、武力で鎮圧しようとします。地元の警察以外に、ベルクトと呼ばれる民警が組織され、キーウに投入されました。彼らの多くはウクライナ東部出身者で、過激な行動でマイダンを脅かします。また政府は犯罪で投獄されていた囚人たちを釈放し、テントに立てこもる住民を襲わせます。もちろん、警察も彼らの蛮行を止めません。

日本人からすると、このような手法は考えられません。しかし、囚人を釈放し活用する方法は、今のゼレンスキー大統領も使いました。攻めてくるロシアに対して、協力を求めて釈放しています。

テントで抗議活動をする人たちへの暴行や略奪を止める者はいないので、身を守るために自警団を作ります。その中心になったのは、普段は市民から疎まれていたサッカーチームの過激な応援団です。彼らは統率力があり、腕力にも自信があります。この動きはウクライナの他の地域のマイダンでも広がります。各地で、サッカーの過激な応援団が、抗議運動をする人々を暴徒から守りました。

自警団の中にはより過激になり、政府の施設の占拠を試みる集団も出てきます。年を越え、2014年には、政府とユーロマイダンの衝突は激しさを増します。2月18日から22日にかけて大規模な衝突が起き、銃器も使われ、多くの死傷者が出ました。特に2月20日の悲劇は、キーウの人々に大きな傷跡を残します。

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