大久保利通が岩倉具視に大政奉還後「銃」送った訳 政権返上してもノーダメージだった徳川慶喜

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岩倉が大政奉還後に倒幕に消極的になったのは、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃されて、殺されたことも関係していた。公家らしからぬ大胆さで知られる岩倉だったが、命をとられてはたまらない。

しかし、その点、大久保は肝が据わっている。かつて、船が転覆しかけたときに、すでに一度は死んだ身である。大久保は岩倉に「これで身を守れ」とばかりにピストルを送って励まし、徳川を除いた新政権の樹立へと、岩倉を再び奮い立たせている。

王政復古の大号令にあたって、大久保は入念に下準備を行った。薩摩藩主の島津忠義に働きかけて、3000の兵を率いて京に入らせている。さらに、大政奉還に尽力した土佐藩の後藤象二郎を取り込むことに成功している。

そして決行日の12月9日には、朝議が終わり、徳川派の公家が退出したタイミングで、御所の各宮門を兵で固めてしまった。そのとき集まったのは5藩で、薩摩藩・土佐藩・越前藩・尾張藩・安芸藩である。この5藩と長州藩、さらに一部の公家を加えた新政権樹立に向けて、大久保はクーデターを見事に成功させたのだった。

新しい政治の始まりで会議がいきなり紛糾

新政府では、天皇のもと、総裁・議定・参与の三職が設置された。総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には島津茂久(薩摩藩)、徳川慶勝(尾張藩)、浅野茂勲(芸州藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)ら藩主クラスと中山忠能らの公家が就任。

そして、参与として岩倉具視や大原重徳のほか、薩摩藩の大久保や西郷、土佐藩の後藤象二郎や福岡孝弟、長州藩の木戸孝允や広沢真臣らが名を連ねることとなった。

ついに新しい政治の始まりである。明治天皇が臨席するなかで、小御所会議が開かれることとなった。

しかし、いきなり会議は紛糾することになる。意見が分かれたのは、徳川家の処分である。大久保らの倒幕派は、慶喜の内大臣辞任と朝廷への領地の返上、つまり辞官・納地を主張したが、土佐藩の山内容堂はこれに反対。「この会議に慶喜を招くべきだ」と言い出して、後藤象二郎や松平春嶽がこれに賛同を示した。

大久保と岩倉はこれに対して「慶喜が辞官・納地を受け入れるならば、朝議に加えてもよい」とし、あくまでも徳川家の厳しい処分を自分たちで決めることにこだわった。そうしなければ、領地を多く持つ徳川家にキャスティング・ボートを握られてしまうからである。

武力による倒幕への温度差が、そのまま不協和音へとつながっていく。新政権は出だしから暗雲が立ち込めた。大久保はいったん休憩をとることを呼びかけて、どう説得するべきか思案することになった。

だが、大久保が行き詰まったときこそ、活躍するのが西郷である。

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