大政奉還に反対したのは、会津藩だけではない。かつて会津藩とともに慶喜と「一会桑政権」を築いた桑名藩や、親藩・譜代大名、そして幕臣たちも大いに失望し、憤りを見せた。
それどころか、外様大名のなかでも、慶喜の大政奉還に反対の立場の者が少なくなかった。どうも大政奉還を「土佐藩や薩摩藩の指揮下に入りかねない」と考えたらしい。それならば、幕府の下にいたほうがまだ納得できるというわけである。
江戸幕府ももはやここまでか……。多くの者がそう考えるなか、密かに安堵したのが徳川慶喜だ。この大政奉還こそが、慶喜がギリギリの場面で放った起死回生の策だった。
そして唇をかんだのはむしろ大久保であり、西郷のほうだったのである。
大政奉還しても徳川家の領地はそのまま
慶喜はもちろん、大政奉還を提案した土佐や薩摩の下に入ることなどみじんも考えていなかった。形だけ朝廷に政権を渡すことで武力による倒幕から逃れ、かえって実権を握れると目論んだのだ。実際に、朝廷は政権を渡されても何もできず、慶喜にこう通達している。
「大事は諸大名の会議で決めるが、日常的なことはこれまでどおりにせよ」
慶喜はほくそ笑んだことだろう。日常業務について「すべてこれまでどおりでよいのか」と朝廷に念押しして、10月22日に「これまでどおりでよい」という回答を朝廷から引き出している。
その翌日には「外国とのやりとりなども、これまでどおりでよいのか」と言質をとるかのように確認。情けない朝廷は「外国とのやりとりなども、これまでどおりでよい」というスタンスをとった。
慶喜が大政奉還をしたところで、徳川家が持つ広大な領地はそのまま。天皇が持つわずかな料地さえ、これまでどおり徳川が管理することとなり、実質的に慶喜はノーダメージだった。
それでいて政権は形式上、朝廷にあるために、自分は何ら責任を問われない。慶喜は大政奉還によって、理想的な政治体制を手にしたといっても、いいすぎではないだろう。
このままでは結局、徳川の世が続いてしまう。そこで大久保の次なる一手が、「朝廷が政治を行う」と高らかに宣言させることだった。それこそが「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデターである。この宣言によって、摂政と関白を廃止するとともに、征夷大将軍の地位が消滅。700年にもわたって続いた武家政治に終止符が打たれた。
号令を発したのは15歳の明治天皇だが、むろん、自分の意思ではない。大政奉還によって倒幕の意欲をそがれつつあった岩倉の尻を大久保が叩き、2人が中心となって宮廷工作を行った。この根回しこそが大久保の真骨頂であり、晩年に岩倉はこう振り返っている。
「あの時期の大久保と私が謀議したことは、ことのすんだ今となっても、とうてい余人には洩らせぬものばかりだ」
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