日中韓を振り回す「ナショナリズム」の正体 第1回 熱くなる前に、身近なことから考えよう
一方で、上部構造があるとすると、同様にナショナリズムの下部構造というものがあります。それがわれわれの日常の生活倫理、規範……そういうものですね。私たちの国で言えば、江戸時代から続く共同体の中に伝承している倫理規範といったものも、やはり私たちのナショナリズムではないかということです。
こういう主張をすると、「保阪さん、それ違うと思うよ。それはナショナリズムというより、むしろ愛郷心、ふるさとを愛するという意味じゃないか」って言われることがあります。だけど、僕は違うと思う。
私たちは何も、ナショナリズムという言葉を限定して考える必要はないと思うんです。ナショナリズムには上部構想と下部構造があると考えるほうが自然なんです。民俗学でいえば、柳田國男や宮本常一が一生懸命ナショナリズムの下部構造を作り上げ、拾い上げ、そしてそれを学問化しようとしたわけですね。
そのことを私たちは忘れてはいけないと思います。
上部構造と下部構造が対立状況にあった
そのようにナショナリズムの上部構造・下部構造を考えると、私たちはナショナリズムの上部構造の「国益の守護」「国権の伸張」「国威の発揚」といった、近代日本の政治的な国策決定基準の中のナショナリズムは、もともと下部構造のナショナリズムとの対立状況にあったんじゃないかと考えることができると思うんですね。
これについては、いっぱい例を挙げることができます。たとえば、昭和16(1941)年1月に陸軍大臣の東條英機が軍内に示達した戦陣訓。戦陣訓はかなり長いものなんですけど、その中に、捕虜になることを禁じる項目があります。兵隊の命などは軽いものだとか、郷党・家門の名を汚すなとか、いろいろ書いてありますよ。
これはよ~く読むと、上部構造のナショナリズムで決まった政策を、下部構造のナショナリズムに合体させようという意図が見えてきます。戦陣訓は、軍事の空間の中で強制的に、上部構造のナショナリズムを下部構造のナショナリズムに合体させるためのものだと言えるわけです。
そう考えると、もっともっといろんな例を挙げることができます。例として、昭和12(1937)年の7月7日、盧溝橋事件が起こる前の世相についてお話しましょう。
この事件の以前も、もちろん毎年、兵役検査があり、20歳になると本籍地で兵役検査を受けます。当時、年間30万人が受けたと言われていました。30万人の20歳の青年です。
その判定基準には甲・乙・丙種とあります。甲種というのは、心身共に健康で、身長は152センチ以上あり、視力がいくつだというようなことなんです。それから字が読めるとかね。甲種合格というのは、30万人のうちの約3割です。だいたい9万人くらい。30万人のうち、兵隊検査を受けて、9万人が甲種合格なんです。