日中韓を振り回す「ナショナリズム」の正体 第1回 熱くなる前に、身近なことから考えよう
昭和20年の6月には、本土決戦だけですけど、義勇兵役法というのが公布されて、男性は15歳から60歳、女性は17歳から40歳まではみんな、義勇兵。つまり軍に編入されるようになります。これが特攻要員だったんですけどね。本土決戦にならなかったんで、よかったんですけど。
つまり、行きたくないと言って平気で神様を拝めた時代が続いていたのに、日中戦争で大量動員がかかると、もう神社へ行って、「どうか息子が戦争に行かないように」と祈ることはできません。祈ったら、「非国民」になってしまうわけなんですね。
そして、その代わり、召集令状が来たら、みんな喜ばなきゃいけないという空気になってくる。赤飯を炊いて、小学校の校長や駐在さん、それから村長さんなどが総出でタスキをかけ、召集される「何々君」を中心に神社まで行進していって、必勝祈願などしていますね。
これをナショナリズムの、先の私の持論で言うと、どうなるでしょうか。
日中戦争前までは、国家のナショナリズムというものを下に押し付けようとしても、下のほうは「戦争なんかイヤだ。なるべく行かないように……」というのが当たり前のようになっている。
ところが、国家が「兵隊が足りない、おまえたちは国益の守護、国権の伸張のために、国のために戦え」ということを強圧的にドンと押していくと、つまり上部構造が下部構造を押し込んでいくと、いっぺんに世の中が変わってしまう。それで「何々君、万歳!」と、送られていくということになるんですね。
これは上部構造が、下部構造の道徳・生活規範・ルールを抑えていくひとつのケースだと私は思います。国のナショナリズムが、下の国民が持っている道徳規範のナショナリズムを、完全に支配していくんですね。
もちろんそのために、教育の場では「国体の本義」とか、青少年に与える勅語とか、そういうのが出ます。
このようにして、国民の下部組織にあるナショナリズムが抑圧されていくというのが、昭和史のナショナリズムの現実の姿なのです。
村落共同体で伝えられてきたナショナリズム
では、より具体的には、下部組織のナショナリズムとはどんなものか。
それは柳田國男や宮本常一の本をよく読むとわかります。宮本常一の本には、日本の村落共同体で、どのような倫理観、生活規範、人生観などが引き継がれてきたのか書いてあります。それをあえて私はナショナリズムと言いますけどね。