日中韓を振り回す「ナショナリズム」の正体 第1回 熱くなる前に、身近なことから考えよう
たとえば、田舎の子どもが遊ぶ話の中に、こんなことがあります。子供がザリガニ捕りをして、暗くなって家に帰ってくるとき、ザリガニを持ってきた。それを見ておじいさんが忠告する。
「ザリガニの脚をとって遊んじゃダメだぞ。遊んだあとは、ザリガニをちゃんと池に戻せよ。そして、また、あした、一緒に遊ぼうな」
このように、間違っても、ザリガニの手足を切ったりして遊んではいけないということを教えるんですね。自然とどういうふうにしてかかわり合うか、小動物とどういうふうにしてかかわるか、ということを教えるわけです。
家に帰って、食事をするときはどのようにするか。あるいは言葉遣いはどうあるべきか。年長者と話すときはどういう言葉を話せばいいのか……。ごく当たり前の道徳とか倫理観というものを、生活の中で教える。それが日本人の共同体の中で、とんでもない勉強になるんですよ。
「泣く子と地頭には勝てぬ」というような格言もそうですね。そういうように、昔の権力の上部機構は各藩でしょうが、その言うとおりにしろというような教えもあります。
日本人が受け継いできた倫理観
しかし、もっと重要なのは、そこで個々人の生きていく姿が、言い伝えや倫理の中にきちんと凝縮しているということなんです。自然と共生せよ、小動物を愛せよ、言葉遣いはどうしろとかですね。そういった倫理観というのは、ずっと日本人を貫いて、日本人が持ってきた貴重なものです。
江戸時代の200年以上、内戦も含めて、日本はただのいっぺんも戦争しなかった。そして私たちの国は自然と共生し、そういった中でどういう倫理観を身に付けるかということを教わってきた。
もちろん、そうした中には、封建的な道徳の義務もありますよ。しかし、それとは別に、それぞれの人が共同体の中で生きて、死んで完結するという姿があるんです。そこに生きている共同体の倫理とか、そういうものが下部機構のナショナリズムだと私は言うんですね。そういうナショナリズムは大切にしていかなきゃいけない。