「浮気された妻」と「略奪した愛人」日記が語ること 「蜻蛉日記」と「和泉式部日記」を読み比べる

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今回は、浮気夫に向けた呪い節の『蜻蛉日記』を読み返すと同時に、不倫略奪婚を勝ち取った記録である『和泉式部日記』を引き合いに出してみたい。妻(正確にいうと二番手だが)と愛人、憎しみと愛、失望と期待……2作を交互に味わえば、妄想がよりいっそう膨らみ、楽しさが倍増する。

『蜻蛉日記』は『和泉式部日記』に比べて4倍以上の長さがあり、たった10カ月の出来事にフォーカスした後者と違って、21年もの月日について書かれている長編なので、2作を完全に重ね合わせることは難しい。

しかし、恋愛市場の落ちこぼれであるみっちゃんと、やや不安が残りつつも恋の喜びに浸る和泉ちゃんは、明らかに対照的な立場にいる。恋する者たちの微かな心の機微を描いた点において通い合うものがあれど、2人がたどった運命はそれぞれの著作にはっきりとした爪痕を残している。

孤独な「私」が主役!『蜻蛉日記』

まず、恋愛の敗者と勝者の違いが最も顕著に現れているのは、各々の語りの主体だ。三人称の「女」でスタートを切る『蜻蛉日記』だが、すぐに「(かわいそうな)私」に切り替わる。

そもそも古典文学において主語はあってないようなもので、かなり曖昧なコンセプトではあるが、『蜻蛉日記』の語りの姿勢は間違いなく「このわたし!」である。つまり、みっちゃんは自己観察の精神から自らの生活体験を振り返り、21年間の出来事を主観的に語り尽くして、他の観点が入り込む余裕は1ミリも残されていない。

例えば、眠れぬ孤独な夜の次のような描写。

かくて絶えたるほど、わが家は内裏よりまゐりまかづる道にしもあれば、夜中あか月とうちしはぶきてうち渡るも、聞かじと思へども、うちとけたる寝もねられず、夜長うして眠ることなければ、さななりと見聞く心ちは何にかは似たる。
【イザ流圧倒的訳】
こうして夜離れがつづいている間、わたしの家はあいつ(夫・兼家)が内裏への行き帰りの途中でもあったものだから、夜中やら、明け方やら、咳ばらいをして通って行くのが聞こえる。絶対気にしないと思っても耳に入ってしまって、すやすやと眠れるわけがない。秋の夜は長く眠ることなしという詩句があるが、あの人が通り過ぎていくのだと察するこの気持ちは、一体何にたとえればいいのだろう。

いく度の浮気が発覚した後、夫の足が次第に遠のいていく。もうきれいさっぱり忘れたいけれど、彼が仕事(それとも別の女がいる屋敷?)にいく気配が気になって仕方なく、一睡もできずに夜が明ける。いかにも『蜻蛉日記』らしい風景だ……。

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