日がただ暮れただけだというのに寂しくなって、そんなくだらない理由でも大好きな彼が確実にそのラブコールに応えてくれると「女」は信じている。
感情の一進一退があろうとも、時間が経つにつれて恋人たちの愛が次第に深まり、最終的なゴールである恋愛の成就が少しずつ近づいているのがわかる。
作品における季節の移り変わりは、平安らしき美意識の表れでありつつも、2人の運命の進行をつかさどるものでもある。気が向いた時にしか訪問してこない兼家にたらい回しにされるみっちゃんとは大違い。彼女がしたためた21年間の記録は、ただ時間の経過を示しているものにすぎず、そこは『和泉式部日記』に感じるような超自然的な力、愛の強さは微塵もない。
どちらの恋愛も後世まで残った
どちらの作品も情趣美に溢れた、王朝恋の世界の一端を映し出す。さらに、和泉ちゃん、みっちゃんともに工夫を凝らして、ストーリー以上に自らのメッセージを読者に届けることに成功しているからこそ、真逆な女像が見えてくる。
存分に愛された女と、思い描いていた結婚生活を手に入れることができず、過ぎ去っていった半生を振り返って、ただただ身の不幸を嘆いている女……。ただし、それはぞれぞれの作者が意識的に作り上げているイメージゆえに、彼女らを「敗者」「勝者」として簡単に片付けられないところもある。
みっちゃんは実際、訪れが完全に途絶えた日まで苦しみ続けて、和泉ちゃんは少なくとも日記の対象となっている10カ月の間には宮の愛を一身に受けていたはずだ。
しかし、読み手の想像力に強烈な印象を残すという意味では、うざい妻vsわがまま愛人のバトルの結果は引き分け、どちらも勝っていると言える。幸福だったかどうかは別として、2人とも自らの恋が存在していたことを歴史に刻むことができたからである。
1つひとつの言葉に隠されている平安女子の意志の強さ、抜かりのない文学的センス……何回読んでも感服させられてしまうもの。来年もまたきっと読み返すことになるだろう。
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