「浮気された妻」と「略奪した愛人」日記が語ること 「蜻蛉日記」と「和泉式部日記」を読み比べる

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和歌が心の窓だと信じられていた平安時代だからこそ、その事実はかなり重要だと思われる。結果的に『蜻蛉日記』は作者の感情を中心とした語りになっているのはもちろんだが、相手の兼家はいっさいみっちゃんを通して描かれておらず、読者の目にはその不在しか印象に残らない。

それに引き換え、『和泉式部日記』の中では宮の心語も所々現れており、彼が性格と意志を持った独立した登場人物として感じられる。「女」目線の語りにおいて、宮の登場は脇役的存在となっているものの、何度も読者の前に現れて、ラブストーリーに積極的に参加されているご様子。そして2人の甘くて切ないやり取りを追いながら、相思相愛だったに違いないと、読み手が信じて疑わない。

過ぎ去った21年間と、胸キュンの10カ月

時間の経過に関する表現もまた、恋愛の敗者と勝者の絶対的な違いを強調している。

日記の体裁上の問題でもあるが、『蜻蛉日記』において、作者は記事として特に取り上げなかった月日の流れを簡単に記している。「さて、九月ばかりになりて」「年かへりて、なでふこともなし」「あき、ふゆ、はかなうすぎぬ」、というような具合に、みっちゃんは空白も含めて過去をよみがえらせている。きっちりと、全部。それはまるで無駄に過ぎ去ってしまった日々、月々を刻んでいるかのようである。

『和泉式部日記』では、恋人たちと関係のない時間、記事に取り上げていない日々のことが言及されている例は見当たらない。とにかく密度がぎゅっと濃くなっている。

そもそも10カ月というわずかな期間なうえに、すべての記述が恋の発展に寄り添っており、圧倒的なスピード感がある。春、夏、秋、冬、季節が目まぐるしく過ぎてゆく。

和泉ちゃんや宮が待ちわびたり、相手から連絡が来るのを願ったり、悩んだりする瞬間はあっても、それはすぐに次の出来事につながるものであって、みっちゃんの場合のように人生が中断されているわけではない。キュンキュンが止まらず、ジェットコースターの如く恋は突き進む。

色々に見えし木の葉も残りなく、空も明かう晴れたるに、やうやう入りはつる日影の心細く見ゆれば、例の聞こゆ。(女)なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮はものぞ悲しき
【現代訳】
紅葉の季節になり、いろいろな色に見えた葉っぱがすっかり落ちて、空も明るく晴れた日に、やがて夕方になって沈んだ光が心細く思った頃合いに、いつものように歌を送る。(女)あなたが慰めてくれるとはわかるけど、やはり夕方になると悲しくなるわ……。
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