――石井さんがこれまで対象としてきたテーマとは違うように感じました。
15年ほど前、文壇バーのマダムについて書いた最初の作品『おそめ』を発表した直後、ある出版社の方がユージンの写真集『MINAMATA』をくれました。そして「彼について書ける執筆者、それも女性の書き手を探していた」と言うのです。
深い陰影が差した写真はどれも宗教画のようで、引き込まれました。なぜ、こんな写真が撮れたのか。撮った写真家はどういう人なのか。とても気になりました。
彼と離婚した元妻アイリーン・美緒子・スミスさんが京都にお住まいと聞き、会いに行ったのです。そのとき、アイリーンさんにも頼まれました。ぜひ、書いてほしいと。
「逃げた」ことを引きずった
――きっかけは、ずいぶん前なのですね。
自信がありませんでした。
当時はまだ1作しか書けておらず、テーマは芸者さんの半生で、水俣病とはかけ離れている。水俣病の文献や資料は多すぎるくらいあり、書き手の主張も強い。全体を把握したうえで書き切る自信がありませんでした。それで、断ったというか、逃げたのです。
その後も逃げたということを引きずっていたのですが、数年前、ある記事に目がとまりました。ハリウッドでユージンを主人公にした映画が作られるというのです。しかも主演はジョニー・デップ。
アイリーンさんは心配していました。どのくらい脚色され、事実が歪められてしまうのかと。ハリウッド映画の影響力は大きい。映し出されるすべてが事実であるかのように世界に広がってしまう。
この本を書こうと思ったのは、そのときです。事実に基づいた作品を書く意義は大きい、と。
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