「打倒慶喜」果たした岩倉具視が最期に悔やんだ事 「会いたい」と死ぬ間際まで切望した人物がいた
ひとしきり寝てから岩倉が目を覚ますと、側近の城多董はあきれてこう問うている。
「今まさに、計画が台無しになるかもしれないというときに、どうして寝ることができるんですか」
おそらく城多は寝るどころではなかったに違いない。しかし、岩倉は平然とこう言ってのけている。
「計略が尽きて知力の果てまできたときこそ、睡眠をとるとよい。心が晴れやかになり、よい考えがまた浮かぶものだ」
人事を尽くして天命を待つ。自分のコントロールできないことは悩まないというのが、計略家、岩倉のモットーだったようだ。
結局、杞憂に終わり、
鳥羽・伏見の戦いでも休憩所で爆睡
だが、このまま平和裏に革命は終わらなかった。薩摩藩の挑発に乗り、旧幕府軍が京に向かって進撃を開始。鳥羽・伏見で薩摩藩と武力衝突し、戊辰戦争が始まることとなる。
いよいよ、決戦の火ぶたが切って落とされるなか、岩倉はどうしていたのだろうか。当時、岩倉のそばに仕えた山本復一の証言によると、砲音で御所の障子がビリビリと響く中で、岩倉は休憩所で、またもや呑気に寝ていたという。
これに怒った人物がいた。尊王攘夷派の公家、烏丸光徳である。もともと烏丸は岩倉に疑いを抱いていた。二条城を出て大坂城に入った慶喜に対して、岩倉は徳川慶勝や松平春獄とも接触しながら、何やら説得を重ねていると聞いていたからだ。
「岩倉には、この期に及んでまだ、旧幕府勢力と手を組むという考えがあるのではないか」
烏丸はこんな疑念を持っていたというが、無理もない。岩倉は腹が読めないので、たとえジャブ程度の様子見であっても何かと憶測されやすい。
そんなときに、鳥羽・伏見の戦いが始まり、砲撃の音にみなが戦々恐々としている中、岩倉が1人でぐうぐうと寝ていると聞いて、烏丸の不信感はピークに達した。烏丸は休憩所に殴り込み、寝ている岩倉を叩き起こした。
「岩倉さん! あの砲声をお聞きなさい。官軍は敗北して逃げてくる。もう駄目ですぞ」
烏丸は、新政府軍が旧幕府軍に押され気味で劣勢にあると、うそをついて岩倉を試したのである。しかし、起き上がった岩倉は、まったく動じることなく、こう言ったという。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら