「打倒慶喜」果たした岩倉具視が最期に悔やんだ事 「会いたい」と死ぬ間際まで切望した人物がいた

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ひとしきり寝てから岩倉が目を覚ますと、側近の城多董はあきれてこう問うている。

「今まさに、計画が台無しになるかもしれないというときに、どうして寝ることができるんですか」

おそらく城多は寝るどころではなかったに違いない。しかし、岩倉は平然とこう言ってのけている。

「計略が尽きて知力の果てまできたときこそ、睡眠をとるとよい。心が晴れやかになり、よい考えがまた浮かぶものだ」

人事を尽くして天命を待つ。自分のコントロールできないことは悩まないというのが、計略家、岩倉のモットーだったようだ。

結局、杞憂に終わり、計画が漏れることはなく、無事に政変は成し遂げられる。慶応3(1867)年12月9日、新政府最初の会議が小御所で開催されると、明治天皇により「王政復古の大号令」が発出。慶喜の将軍職の辞任が正式に決まり、領地についても新政府に献上されることとなった。そればかりか、摂政や関白も廃止に踏み切るという大決断が下されている。

鳥羽・伏見の戦いでも休憩所で爆睡

だが、このまま平和裏に革命は終わらなかった。薩摩藩の挑発に乗り、旧幕府軍が京に向かって進撃を開始。鳥羽・伏見で薩摩藩と武力衝突し、戊辰戦争が始まることとなる。

いよいよ、決戦の火ぶたが切って落とされるなか、岩倉はどうしていたのだろうか。当時、岩倉のそばに仕えた山本復一の証言によると、砲音で御所の障子がビリビリと響く中で、岩倉は休憩所で、またもや呑気に寝ていたという。

これに怒った人物がいた。尊王攘夷派の公家、烏丸光徳である。もともと烏丸は岩倉に疑いを抱いていた。二条城を出て大坂城に入った慶喜に対して、岩倉は徳川慶勝や松平春獄とも接触しながら、何やら説得を重ねていると聞いていたからだ。

「岩倉には、この期に及んでまだ、旧幕府勢力と手を組むという考えがあるのではないか」

烏丸はこんな疑念を持っていたというが、無理もない。岩倉は腹が読めないので、たとえジャブ程度の様子見であっても何かと憶測されやすい。

そんなときに、鳥羽・伏見の戦いが始まり、砲撃の音にみなが戦々恐々としている中、岩倉が1人でぐうぐうと寝ていると聞いて、烏丸の不信感はピークに達した。烏丸は休憩所に殴り込み、寝ている岩倉を叩き起こした。

「岩倉さん! あの砲声をお聞きなさい。官軍は敗北して逃げてくる。もう駄目ですぞ」

烏丸は、新政府軍が旧幕府軍に押され気味で劣勢にあると、うそをついて岩倉を試したのである。しかし、起き上がった岩倉は、まったく動じることなく、こう言ったという。

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