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「打倒慶喜」果たした岩倉具視が最期に悔やんだ事 「会いたい」と死ぬ間際まで切望した人物がいた

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  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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人生のどん底からはい上がってきた人間は強い。岩倉具視の生涯をみるに、その思いを強くする。

下級公家から成り上がったばかりではなく、5年にわたる蟄居生活で村に閉じ込められても、岩倉は不死鳥のごとく復活した。その後は、政局にもみくちゃにされながらも、どんな困難でもあきらめることなく、調整役をまっとうして討幕に大きく貢献している。

「王政復古」という長年の夢を実現させた岩倉。その突破力は、過酷な謹慎生活によって磨かれたものだといってよいだろう。

しかし、討幕によって天皇親政が確立されたとはいえ、国家の基盤としては脆弱極まりなかった。岩倉は新しい中央集権的政治体制を作るため、明治になってからも、数多くの意見書を書き続け、政治への情熱を失うことはなかった。

死ぬ前にどうしても会いたかった人物とは?

明治16(1883)年7月20日、岩倉は58歳の若さでこの世を去る。ドイツ人医師のベルツによれば、食道がんで絶望的な状況だという告知を受けてもなお、岩倉は死を少しも恐れていなかったという。

ただ、岩倉には死ぬ前にどうしても、会いたい人物がいた。それは伊藤博文である。伊藤はヨーロッパに滞在しており、新しい憲法を持ち返ってくることになっていた。

「死ぬ前にぜひとも、伊藤に伝えておかねばならないことがある。帰国まではまだ数週間かかるだろう。私をそれまでもたさねばならないが、それは可能だろうか……」

さらに、岩倉は低い声でこう付け加えている。

「これは自分一身のために求めているのではない……」

だが、伊藤が帰国するそのときまでに、岩倉の命はもたなかった。いよいよとなると、岩倉は参議の井上馨を枕元に呼び寄せて、遺言を一語一語、ゆっくりとささやいた。その内容は明らかになっていないが、最期まで国家の行く末を案じていたのだろう。

「姦物」と周囲からは批判されながらも、目まぐるしく変化する政情の中で好機を見極めて、少しでも自分なりに国家を前進させようとした岩倉具視。最期を看取った医師のベルツは岩倉をこう称した。

鉄の意思を持つ人――。彼なくしては、日本が新しい時代を迎えることはなかっただろう。

【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)
佐々木克監修『大久保利通』 (講談社学術文庫)

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