「打倒慶喜」果たした岩倉具視が最期に悔やんだ事 「会いたい」と死ぬ間際まで切望した人物がいた

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「そうか。それでは仕方がない。吾らは一戦して死ぬばかりじゃ」

このときに岩倉は烏丸に「明治天皇については、薩摩の大久保らと相談して逃げ道を確保している」とも伝えている。一時は岩倉の暗殺まで考えた烏丸だったが、肝の据わった様子を見て、もはや刺す気がなくなってしまった。

ちなみに、この烏丸光徳は明治維新後に初代東京府知事を務めることになる。このときに早まった凶行に出ていれば、まったく違う未来が待っていたことだろう。

岩倉がそれだけ腹をくくっていたのは、すでにやるべきことはやっていたからである。慶応4(1868)年1月3日、薩摩藩と旧幕府軍が衝突すると、朝廷で緊急会議が開かれた。岩倉に熱弁を振るったのは、薩摩藩の大久保利通である。

大久保の主張は「仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍として任命して、錦の御旗のもと、列藩に旧幕府軍の征伐を布告してほしい」というもの。つまり、慶喜を朝廷の敵だとはっきりと世に示して、追討するために諸藩に協力を呼びかけてほしい、というのだ。

しかし、朝議では、松平春嶽が「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘にすぎない」として、朝廷は中立であるべきと強く主張。春嶽は、徳川家の親藩大名である越前松平家の前当主であり、慶喜を見捨てておけなかったのだろう。「旧幕府軍との全面戦争を避けるべきではないか」という声もあり、会議が紛糾する中、難しい決断を下せるのは岩倉のほかいなかった。

掲げられた錦の御旗に動揺した慶喜

翌日の1月4日午後2時過ぎ、征夷大将軍となった仁和寺宮嘉彰親王が、東寺へと進軍。高々と錦の御旗が掲げられることとなった。岩倉は大久保の説得に応じたのである。

自分が朝敵とされたことは、長きにわたって朝廷を重視していた慶喜を大いに動揺させたといわれている。徳川家に生まれながらも、母方から朝廷の血を引く慶喜は、幼きころからこんな家訓を聞かされて育っていた。

「幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」

朝敵とさせられた慶喜の行動は、迷走を極める。1月5日、大坂城にいた将士たちに「大坂城を死守すべし」と熱弁を振るったかと思えば、その翌日に、大坂城から逃亡。総大将が江戸に逃げ帰るという前代未聞の失態により、旧幕府軍は新政府軍の前に敗北を喫した。

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