(第19回)「失われた15年」が生じたメカニズム

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 ところで、以上で述べたことは、「日本経済の変質」であって「構造変化」ではない。なぜなら、産業構造は変わらなかったからだ。外部条件が変化したために日本経済が変調したのだ。変化に対して産業構造を改革して対処したのでなく、以下で述べるように、円安政策で外需依存を強め、古い産業構造を温存したのである。

これは、80年代のアメリカで日本からの圧力で製造業の比率が低下し、新しい経済構造への移行が進展したのとは大きく違う。日本が「失われた15年」に陥った基本的な原因は、この点にある。

90年代後半から外需依存経済が始まる

90年代前半は円高の時代だった。95年に1ドル=80円を超える円高が実現し、円高不況と言われる状況がもたらされた。これに対処するため95年頃から為替介入が始まり、円高が止まった。85年のプラザ合意は、製造業が苦境に陥ったアメリカの要求でドル高を止めるためのものだったことを思い出そう。ここでも、日本はアメリカの歴史を繰り返している。

91年頃から低下を続けていた鉱工業生産指数は、94年頃から上昇に転じた。これに伴い、90年代に低下を続けていた企業利益は、90年代後半から回復を始め、97年頃まで上昇した(ただし、その後再び下落した)。

外需依存への移行は、自動車についてみると明白だ。日本の自動車輸出(全車種)は、85年頃までは顕著に増加したが、その後減少に転じた(乗用車は85年頃にピークに達し、その後横ばい。93年頃から減少)。これは、輸出自主規制の影響でもあるが、基本的にはプラザ合意によって円高、ドル安の動きが生じたためだ。ところが、円高が止まったため、輸出は95年頃を底として回復した(ただし、あまり顕著な回復ではなかった。本格的な増加は05年頃からだ)。これには、長期的に減退してゆく国内需要を輸出で補うという意味があった。日本は高度成長期から外需依存で経済成長したと思っている人が多いが、そうではない。外需依存はこの頃から顕著になった現象である。

雇用構造も大きく変化した。87年に711万人であった非正規雇用者は、09年には1700万人になった。他方で、正規雇用者数は約3300万人で変化がない。日本経済は、中国からの輸入にこうした形で対応したのである。このため、賃金もやがて下落するようになる。輸出増で企業利益が回復する半面、家計が疲弊するのが、「失われた15年」の後半の姿だ。

【関連情報へのリンク】
財務省法人企業統計調査
内閣府国民経済計算
経済産業省鉱工業生産指数



野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授■1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省(現財務省)入省。72年米イェール大学経済学博士号取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授などを経て、2005年4月より現職。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書は『金融危機の本質は何か』、『「超」整理法』、『1940体制』など多数。


(週刊東洋経済2010年6月19日号 写真:今井康一)
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